表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/30

二 藤見

 間もなく藤の花が盛りを迎えた。誰かが藤の花を愛でるべきだと言い出し、月の明るい夜を見計らって、大王の館で藤見が行われた。


 出立が迫っていたので行くつもりはなかったが、騒速は鷹彦に半ば命じられて参じることになった。当の鷹彦は全く行く気がないのを、騒速は恨めしく思った。重要な場だと思うなら自分自身が行けばいいのだ。鳥船からもやたらと来るように言われたが、連れ立って歩く相手もいないのに、雅な場に行くのは気が進まなかった。


 風のない黄昏時、騒速は暗澹たる気分で大王の館に着いた。あらかた人が集まり、盛り上がる頃を狙って到着すると、庭にいる人々は既に思い思いの相手との会話に興じている。ちょうど西の空に残った陽の光が消える頃で、ひっそりと現れた騒速に気付く者はなかった。


 館に幾つもある広い庭の一つに、枯れかけた大木が腕を張る一角がある。その古木に太い藤の木が巻き付き、この時期になると方々に薄紫の花を咲かせた。藤の蔓は大木のてっぺんまで這い登り、長い枝の隅々まで絡みついている。月明かりと、あちこちに焚かれた庭火に浮かび上がる鮮やかな花色は、昼間に見る美しさとも違って、幻のようだった。


 騒速は篝火の光の届かない片隅に暫し佇んで、ひっそりと藤の花を見上げた。花房だけを見れば優雅だが、厳しい山間でもどんな木にも巻き付き、ひたすら伸びてゆく逞しさもある。不思議な花だった。

 ぼんやり見惚れていたので、傍に人がやってきたことに気付かなかった。


「騒速」


 振り返ると、鳥船が妻の多岐(たぎ)()と並んで立っていた。居住まいを正し、騒速は二人に向き直った。


「来てくれたのだな」


 笑みを浮かべる鳥船の横で、超然と美しい多岐都が礼をした。多岐都は狭依の姉で、身像国から彼に嫁いだ。鳥船より二十近くも年下で、都一の美貌と謳われる人だ。小柄な立ち姿からは溢れんばかりの気品が感じられ、やや切れ長の目に宿る光は鋭い。月影と火明かりのもとで、髪も肌も常より一層輝きを増していた。


 大半の者は、狭依より多岐都の方が美しいと評した。だが同時に、近寄りがたさは多岐都が妹を遥かに凌駕している。多岐都が自分を一瞥してから、目を逸らす時の寄る辺なさと言ったら、姿を現したことを後悔したくなるほどだ。騒速は恐る恐る礼を返した。


「渋っていたので、来ないかと心配していた」

「鷹彦さまの命でしたので」


 不本意さが声に滲み出ていたためか、鳥船は笑った。夫の笑みを見てもにこりともしない多岐都が、脇から騒速に問うた。


「妹にお会いになった?」


 狭依の姿は見ていなかったので、騒速はすぐに答えた。


「いいえ。いらしているのですか」

「そうだと思ったけれど」


 訝しげにあたりを見回しながら、多岐都は答えた。


「お会いしたら、お探ししていたと伝えます」

「それには及びませんことよ」


 多岐都があっさりと断ったので、なぜ訊いたのだろうと釈然としなかった。だが、鳥船が話しかけてきたので疑問もすぐにどこかへ押しやられた。


「あまりさっさと帰ってしまうな。此処にいる人々と、暫くは会えなくなる」


 彼の言う通りだった。吉備への船に乗れば、短くはない間、都にいる誰もと別れるのだ。だが鳥船と会えた今、他に会うべき人がいるとも思えなかった。

 都に生まれ育ち、縁戚が多数いたら、多くの者と別れを惜しむ必要があっただろう。しかし、身寄りがない騒速は違う。鳥船が声をかけてくれるのは有り難かったが、高貴な武人である彼との間には、埋めがたい溝があった。


「はい――ありがとうございます」


 兎にも角にも騒速は礼を言った。満足げに笑んだ鳥船は、多岐都と連れ立って去った。

 晴れ渡っていた夜空には、いつの間にか雲が棚引いている。誰かが連れてきた子どもたちが、暗闇と火影の中とを行き来し、声を上げて遊んでいた。あたりが暗くなっても露ほども眠くないようだ。


 騒速は小さく息をついた。暗がりに隠れていてもいいが、もう帰ろう。鷹彦がなぜ自分を差し向けたかわからないが、鳥船には会えたのだから帰ってもいいだろう。同時に、狭依が来ているなら会わずに帰りたいと言う思いが頭を掠めた。誰といるか知らないが、意中の相手と楽しそうにしている姿を見て、耐えられる気がしない。

 思った時、足元を駆け抜けた子どもが、背後で誰かにぶつかった。


「ごめんなさい」


 元気よく謝った子どもに、若いが落ち着き払った声が答えた。


「良いのよ。気にしないで」


 子どもは何事もなかったかのように歓声を上げてどこかへ走り去った。だが、騒速は目を見開いて棒立ちになった。子どもに答えた声に、充分すぎるほど聞き覚えがあったからだ。

 此処に――こんな暗がりにいるはずのない人の声だった。我に返って身を翻した騒速は、数歩離れたところにいた彼女に大股で歩み寄った。我知らず窘めるような口調で言葉が出た。


「台与様」

「しっ」


 火明かりが届かない場所へ飛びのきながら、台与は唇の前に人差し指を当てた。


「大声を出さないで」


 声を潜めながらも堂々と命じる台与を、騒速は驚きをもって眺めた。采女(うねめ)から借りたのか、簡素な衣と裳を纏っている。揺らめく火影の中に見えた衣服は、いつもの白と朱ではなく、目のさめるような若芽色だった。宝冠も頸珠もつけず、髪を肩に垂らしている。変装の意図は明らかなものの、髪の艶や只人ならざる目はとても一介の采女に見えない。身分と身なりが奇妙に違うのは明らかだった。


「一体、何を」


 混乱のあまり途切れ途切れに呟くと、台与は用心深くあたりを見回してから答えた。


「たまには誰の目からも逃れて歩いてみたくなったの」


 何でもないことのように言われて、騒速は暫し呆気に取られた。


「狭依殿は、このことを」

「知っていたら許すと思う?」


 騒速は言葉に詰まった。


「それは、もちろん」


 思いませんが、と続けてから、気持ちを落ち着かせるために息をついた。冷静にならなくてはならない。台与がこんな格好で歩き回っていると知れたら大騒ぎになる。普通、こうした場に現れないか、設えられた壇上に優雅に座っているだけのはずなのだから。まさかこんな形で出くわすとは思わなかったが、知ってしまった以上、放って帰るわけにいかない。ひとまず連れ出して御所まで送って行こう。


 問題は、当の台与には戻る気が全くなさそうなことだった。説得するには何と言ったらいいか、騒速は目まぐるしく考えを巡らせた。台与は此処にいるのが極めて当然だと言わんばかりの様子だ。庭火が朧に照らし出す人々の顔を、目を凝らして見渡している。


「鷹彦はいないの?」

「来ておりません」


 間髪入れずに答えると、台与はやや拗ねたような顔をした。


「そうなの?」

「私だけ行けと仰せでした」


 手短に告げてから、騒速は声を潜めて言った。


「御所へ戻られませ。途中までお送り申し上げます」


 館の最奥は台与と、巫女の長と、采女の中でも限られた侍女しか出入りしない。騒速は鏡の間までしか入ることができないが、その近くまでは送り届けられる。

 だが台与はますますふてくされた顔をした。


「藤見は始まったばかりよ」

「衣を替えて、狭依殿といらっしゃれば良いのです」

「それでは嫌だと言っているのに」


 思いのほか台与は手ごわかった。無論大王には、一介の武人である騒速の言うことを聞く謂れはない。だが、侍女もつけずほっつき歩くことのとんでもなさも、台与なら充分にわかっているはずだった。


「こんな風に出歩いたのは、生まれて初めてなのよ。少しくらい見逃してくれても良いのではなくて?」


 騒速は答えに窮した。寄る辺ない田舎者の悩みがあるように、山門大王にもまた、他者と分かちがたい悩みがある。どこまでも心のしなやかな台与が、悩みと捉えているかはわからないが、まっすぐに見据えられ言い募られると、黙するしかなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ