一 従者
草枕旅行く君と知らませば
岸の黄土に匂はさましを
清江娘子
台与は何日か、鳥船や宿禰と内々に話し合っていた。出雲に対する次の一手と同時に、如何に秋津洲に進出するかということが、前々から彼女を悩ませていた。
秋津洲では出雲や吉備が、勢力を拡大し続けている。二国とも洲の中ほどにある大和への進出を成功裏に遂げ、纏向と呼ばれる地に競うようにして宮を建てていた。
大和は秋津洲の中心を押さえ、迫門の内海を見渡す要害だ。大和を制した吉備や出雲は、大乱で遅れを取った智舗にも、いずれ西進してくるだろう。そうなる前に、智舗の方から秋津洲に出向いて足場を築きたかった。
まずは、隣国である出雲の様子を探るべきと、先日鳥飛が行われた。そして、出雲は智舗に降る意志のないことが、今やはっきりした。
内乱からようやく回復しつつある智舗は、次の一手を間違えたくない。話は誰かと戦うより手を組む方へ向かった。日向大王のもと交渉で国を広げたように、秋津洲での地固めも兵を失うことなく進めたかったのだ。
鷹彦も時折、秋津洲の様子を聞くためにと謀議に呼ばれた。ただ、彼が筑紫洲へ来てからかなりの年数が経っている。そのため台与たちは鷹彦に加えて、迫門の海を行き来する商人たちにも話を聞いていた。
宿禰と夷守とその麾下が再び集められる頃には、散った桜の花びらが地面を覆いつくさんとしていた。狭依も含め、鳥飛の後に集まった面々が揃うと、台与は神宝である銅の鏡の前で言った。
「出雲と吉備に遣いを出す」
吉備、と騒速は小さく呟いた。
迫門の内海に面した吉備国は、秋津洲で勢力を誇る国の一つだ。出雲とは山を挟んで南北に隣り合っている。そして、大八洲じゅうで最も黒鉄づくりが盛んだった。
台与は、騒速に向かって力強く頷いた。
「吉備へは傘下に降るのではなく、智舗と同盟を組むよう持ち掛ける」
智舗は百余国を従えているが、身像を除けばほとんどは小国であった。智舗と各国の差は明らかであり、日嗣の巫女の力も手伝って、交渉はそれ程難しくなかった。だが、吉備なら話は違う。
誰も何も言わなかったが、騒速は台与の言葉をすんなり受け入れられず落ち着かない。彼の様子に気付いた鳥船が、目線で言葉を促した。
「吉備は耳を傾けるでしょうか」
口を開いたのは台与ではなく、八女宿禰だった。
「ただ手を組もうと言っても従わないだろう。吉備一国で大抵の敵は寄せ付けないからな。だが出雲を退けるためとなれば従うはずだ」
男にしては声の高い宿禰は、所作も優雅で、いっそ艶めかしくすら見える。大王の臣下の大半は、いざとなれば武器を取って戦えるが、彼は身に着けた鎧の重さも支え切れるか疑わしい。宿禰とは本来副官を指す呼び名なのに、実際は鷹彦が副官と目されるのもそのためだ。一方、頸珠や、下げ鬟に編み込む色紐の選び方は誰より洗練されていた。
鳥船も厳かに頷いた。
「大和国では、出雲と吉備が勢力争いを続けている。出雲を押さえられる相手となら手を組む理由がある。吉備が南を、智舗が西を押さえることで出雲を囲い込む」
台与が続きを引き取った。
「そういうこと。交渉の筋道は立てているの。吉備へは宿禰が交渉に向かい、護りとして鷹彦にも同行してもらう」
眉一つ動かさなかった鷹彦だったが、微かに緊張が高まったのは分かった。八女宿禰とは台与の面前以外で話したことがない。信頼もない相手と、遠方へ赴けと言うのは唐突だが、自分の身を守れない宿禰に警固が要るのは確かだ。
「杵築へは鳥船を遣わし、智舗に降るよう出雲国主の説得にあたってもらう。鷹彦は宿禰を送り届けた後に山を越えて出雲へ入ってほしい。簸河を辿り、杵築以外に物の潜む地を探り当てて」
「御意」
ごく静かに、迷うことなく鷹彦は答えた。あらかじめ鳥船から聞かされていたのだろう。宿禰の護りとされることは不本意だろうが、彼は台与に従うことを決めている。だから台与や、彼女に仕える鳥船に命じられれば、必ず任を遂げる。
一方騒速は、何も聞かされていなかった。同行するならありえない。鷹彦が自分抜きで発とうとしているのを知って、騒速は焦った。宿禰が出雲への遣いになると根拠なく考えていて、よもや鷹彦が都を離れるとは思わなかったのだ。
あの時――狭依と庭にいた時、鷹彦は台与と二人で話していた。騒速がいない間に、自分だけを秋津洲に遣わすよう頼んだのだろうか。有り得ないことではない。今回の任は、国内の反乱平定とは違う。確かな見通しは何もなく、還ってこられるかもわからないのだから。
「智舗は優れた臣下を一人も失いたくない。両名とも無事に還れるよう、任を全うして」
台与は無垢な顔に真剣な色を浮かべて言った。彼女を見据える鷹彦の目からは、いつも透けて見える憂いが掻き消え、底の知れない決意だけが湛えられている。
騒速の胸で、覚えのある不穏な気分が頭をもたげた。死を恐れない鷹彦は、遠くへ行こうとしている。戻れるかわからない旅に出ようとしている。
ふと脳裏に浮かんだ不安の正体を悟って、騒速は息を詰めた。
「仰せのままに」
淡々と鷹彦が答えた時、騒速は咄嗟に口を開いていた。
「山門大王」
声は思ったよりも大きく広間に響き渡った。鳥船と八女宿禰が彼に顔を向ける。鷹彦は表情を変えないままだった。台与は驚いた様子がないばかりか、勝ち気と茶目っ気を同時に目に浮かべた。どこか強張った顔で騒速を見つめた狭依とは、対照的だった。
「どうした、騒速」
台与が待ちかねたように微笑み、尋ねた。騒速はほとんど間髪を置かずに答えた。
「私も秋津洲へお遣わしください」
鷹彦の表情は相変わらず微動だにしないままだ。台与は穏やかに口元を緩ませてから、騒速に促した。
「わけを申してみよ」
鳥船は台与を一瞥したものの、止める様子はない。騒速はやや緊張しながらも答えた。
「月読の君は、智舗で最も優れた武人の一人でいらっしゃいます。しかし未踏の地で自身に加え他の者を護り、物の相手をすることは容易くはございません」
台与が頷くのを見て、騒速は続けた。このような場で長く言葉を継ぐのは初めてのことだ。いつも、思い浮かんだことを、勢いのまま尋ねるだけだったから。
「護りの輔に武人をいま一人差し向けることも理に適うかと存じます。腕前はいまだ追いつかなくとも、月読の君に鍛えていただいた武技は多少の役には立つでしょう」
混乱した頭で騒速はどうにか続けた。
「私も遣いに任じてくださいませ」
穏やかな面持ちの台与の脇で、狭依が茫然と騒速を見ていた。大王の命に注文をつけたことに呆れているのか、自ら行くと言った身の程知らずさに愕然としたのか。
「鳥船」
傍らの夷守に水を向けた台与は楽しそうですらある。そして鳥船は、驚いていなかった。気のせいでなければ、どこか安堵しているようだ。
「騒速の言い分はもっともです。一人で身を護るのと、人を庇いながらとでは違います。本人が良いと言うのなら、秋津洲へ遣わすことで良いでしょう」
悪かったなと言いたげに、八女宿禰が口元を歪めた。鳥船は素知らぬ顔で続けた。
「良く知った味方がいれば道中、心強い。腹心の者ならなおのこと」
台与は満足げな顔で鷹彦の方を向いた。
「筋が通っている。騒速が付き従うことに異存はない?」
「ございません」
鷹彦が淀みなく淡々と答えた。胸騒ぎをもたらした昏い覚悟は、いつしか主の目から消えていた。秘かに安堵した騒速をよそに、台与が言った。
「騒速も秋津洲へ。智舗の丈夫として鷹彦に良く仕えよ」
小さな顔は意気に漲って明るく、声は凛と良く通る。
「謹んで仕ります」
騒速は座したまま深く礼をした。顔を上げると、狭依が妙に不安そうな表情でこちらを眺めていた。その面持ちは、なぜか騒速の脳裏に焼き付いて暫く離れなかった。




