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一 和香彦


  天の原踏みとどろかし鳴る神も

      思ふ中をばさくるものかは

                 詠み人知らず



 鈍色の雲が淀む花曇りだった。

 濃い灰色の空が、重々しく杵築(きつき)の都を覆っている。春雷の音が朧に響き、ほころびかけた桜の蕾が、国主(くにぬし)の館の庭を物憂げに見下ろしている。


 庭に面した回廊には、和香彦(わかひこ)が佇むのみだ。人をやって呼んだ妻が、ほどなくして現れるはずだった。彼は汗ばんだ額からほつれた髪を払い、桜の枝に目を凝らした。


 先ほどまで、伊那(いな)()の浜で騎射(うまゆみ)の習練をしていた。だが館に戻る道すがら、桃の花が咲き誇る丘を見て、妻の(たか)(ひめ)が開花を心待ちにしていたのを思い出した。騎射の格好のまま此処へ来たのは、すぐにでも妻を丘へ連れて行ってやるためだ。


 尭姫の夫になって七年が経つが、妻の好きなものを忘れたことはなかった。花であろうと、衣であろうと。彼が妻の見たいものを見せ、妻の欲しいものを得てくると、いつも彼女は控えめな笑みを浮かべて和香彦を見た。だから、郷里を捨てて彼女を選んだことに、悔いはなかった。


 俄かに冷たい風が吹いて、汗に濡れた肩を震わせた。近くにある桜の枝が、音を立てて揺れる。鳩か何かが飛んできて止まったらしい。


 和香彦は、ここ出雲国(いずものくに)の者ではない。筑紫洲は智舗国に生まれ育った。智舗を治める女王・日向大王(ひむかのおおきみ)は、和香彦の遠縁だった。先を見通す力を持ち、日の巫女(みこ)とも呼ばれる彼女が和香彦を出雲へ差し向けた。智舗の傘下に降るよう、出雲の国主(くにぬし)を説得するためだった。


 しかし、秋津洲(あきつのしま)で揺るがぬ地位を持つ出雲が、そう簡単に恭順するわけはない。年老いた国主は和香彦の言葉を一笑に付し、歯牙にもかけなかった。そして、和香彦の数年前に遣わされてきた使者と同様、彼を取り立てて出雲国でそれなりの地位を与えた。智舗では決して、手に入らなかったであろう位を。


 和香彦と大王の血縁は遠かった。智舗に仕え続けても、大した地位には上り詰められなかっただろう。だからこそ出雲に差し向けられたのだと、今なら分かる。重要な人物を遠国に遣わすのは誰でも気が引ける。特に、簡単に言うことを聞きそうもない大国が相手となれば。だからここへはついぞ、重臣がやって来なかったのだ。和香彦が一向に帰らず、何の報せもないままに月日が経っても。


 そうしたことを、出雲の国主は徐々に彼に納得させていった。智舗の大王から和香彦が託された言葉をのらりくらりと聞き流しながら、国主は気長に彼をもてなした。居心地の良さに彼が当初の任を忘れ、耳に吹き込まれる心地良い賛辞に故郷への執着が薄れるまで。


 同時に、和香彦は尭姫と親しくなっていった。智舗での微妙な立ち位置に不服だった彼に、勝ち負け以外の考えを教えたのは尭姫だ。誰かに勝たずとも、傍らにいる者とわかりあえれば満ち足りることを、尭姫は教えてくれた。(めあわ)せられたのは、若彦が二十三、尭姫が十七の時だった。


 よそ者の和香彦が取り立てられたことを、良く思わない者もいる。だが背後に国主がいるので、表立って責められることはない。日々は穏やかに過ぎ、後ろめたくはなかった。和香彦の前に遣わされた忍彦(おしひこ)も同様に、国主から与えられた地位に収まっていたから。


 彼が一向に帰ってこないので、和香彦が差し向けられた。彼が務めを果たしていれば、和香彦はここに来なかったのだ。彼がそうしたなら、和香彦が同じことを選んでもおかしくない。しかも自分は、尭姫に選ばれたのだ。国主が娘の中で最も信頼を置き、(いわい)の司も務める尭姫に。だから、誰も和香彦を探しに来なかったことは、気にならなかった――気にしたことなどない。


 桜の枝の間を、先ほど飛んできた鳥が動き回る音がした。枝の隙間から垣間見える羽は(くわ)(ちゃ)色だった。どうやら鳩ではない。


 庭に沿って続く回廊に、遠く尭姫の姿をみとめて和香彦は口元を綻ばせた。先ほどよりも近くで雷が鳴った。


 回廊のすぐ脇の枝が揺れたので、和香彦は木立を見やった。雌の(きぎし)が、きょろきょろと辺りを見渡している。先ほどの桑茶色の羽の持ち主だ。茶と黒の斑模様が、葉の少ない枝のうえで妙に映えていた。雉は和香彦に目を止めると、急に首を高く掲げた。尭姫がいつもつけている櫛の、(べに)(かば)色が見えるまでに近づいてきた時のことだ。雉はそして、嘴を開いた。


深緋(こきひ)の巫女より、智舗の臣下和香彦へ」


 少女の澄んだ声が突如、耳に届いた。尭姫ではない。聞いたことのない誰かの声だった。驚愕でその場に棒立ちになり、食い入るように雉を見つめる。今の言葉は雉が発したものだろうか。嘴の動きを見る限り、そのように思われた。しかし、そんなことが有り得るだろうか。


「如何なる理で智舗は御笠(みかさ)の都に還らぬか」


 御笠の都には、出雲へ来る前に住んでいた。だが、なぜ声の主はそれを知っているのだろう。彼に尋ねているのは一体誰なのだろう。混乱する和香彦を、雉の黒々とした目が見据える。


「日の巫女に代わり、深緋(こきひ)巫女(みこ)が問う」


 凛と響く少女の声に、和香彦は唐突にあることを思い出した。日向大王は、幼い宗女を(よつぎ)にすると定めていた。彼女に代わってと言うなら、深緋の巫女はあの娘――台与(とよ)かもしれない。和香彦が智舗を発つ頃には子どもだったが、今では十六、七にはなっているはずだ。


 和香彦は全身を強張らせ、微動だにしなかった。彼の背後から、誰かが近づいていることには気づかなかった。雉は続けた。


「出雲へ発って八年、大王の任を蔑ろにしたのは何ゆえか」


 自分の身分を正確に言い当てるこの鳥が、台与であることを彼は確信した。日向大王は、先見(さきみ)遠見(とおみ)の力を持っていた。台与は彼女と同等か、さらに強いまじないを使えると言われていた。雉の姿を借りて話すなど、造作もないだろう。


「御笠へ還れ」


 稲妻が閃き、あたりが白く照らし出された。いくらか遅れて鈍い雷鳴が轟く。その響きに合わせて、和香彦は自身の積み上げてきた礎のない安らぎが、根底から崩れてゆくのを感じた。


 智舗では得られないものを、出雲で手にしたと思った。生まれる場所を間違えていたところ、正しいところに辿り着いたと思った。このまま国主の威光に守られて満ち足りた暮らしを続けられると信じていた。


 だがそれは結局のところ、彼が手にして良いものではなかった。放られていた糸を誰かが引けば、簡単に崩れ去ってしまう脆い何かの上に、無防備に生きていたのだ。自分がどれだけ取るに足らない者であるかを知らないままに。


「答えよ、和香彦」


 澄んだ声に迫られ、茫然とする彼に、声を掛けた者があった。ただならぬ緊張を察して、訝しそうに近づいてくる尭姫とは別に。



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