7 人を救う嘘
茂みの奥に居たのは、クマではなく、可愛い可愛い女の子でした。ツインテールの黒髪に、ポケットの繋がった薄いオレンジのパーカー。フリルのミニスカが華奢で細い足を引き立てながらも、履いているのは少し汚れたスニーカーでした。
驚く事に、その子は私の事をお母さんと呼んだのです!
「多分、人違いじゃないかな?⋯⋯それより、貴方の名前は? どうしてこんな山奥に来ちゃったの? 迷子?」
「迷子じゃないよ。私は香織。お母さんの、娘だよ?」
「え、っと⋯⋯あのね、ごめん。私は、貴方のお母さんじゃないの⋯⋯」
「うんん。お母さんだよ。ようやく会えた⋯⋯お母さん!」
瞳に涙を浮かべ、その子は私に抱きついてきた。
何を言っても理解する様子は無く、私をお母さんと信じ込んでいる様子だった。
困ってはいるものの、正直、心が沈んでいた私にとって、目の前に人がいるって事実は途轍もない安心感を与えてくれていた。その上、それは可愛い女の子で、私の事をお母さんと呼んでくれるのだから、嬉しくならない筈がない。
気づけば香織と名乗るその少女を、力強く抱きしめ返していた。
「ごめん。ありがとう⋯⋯ありがとね。そうだよ。お母さんだよ⋯⋯」
あまりの心地よさに、その時の私はそんな軽率な事を口にしていた。本当に軽率で、無慈悲で、無責任すぎる言葉だった。
「よかった。帰ってきてくれて⋯⋯もう、会えないと思ったから⋯⋯」
「ごめんね。もう、離れたりしないから⋯⋯」
「うん⋯⋯約束だよ」
「分かった。約束⋯⋯」
頭に残った二つの疑問を消化できないまま、胸の中で泣く少女に私は嘘を繰り返した。
墜落したヘリから炎が燃え移った山が少し遠くで炎上していた。
数分後に現場で向かうであろう救急車の音が響き渡っていた。
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香織ちゃんと手を繋いで、足場の悪い山道を暫くの間歩くと、遂に山を抜けて、幾つかの世帯が集まる村へと辿り着いた。
一応車も走っているが、見渡す限りあるのは小中一貫の学校一つと最低限の物が買えそうな小さなスーパー、道路沿いは田んぼだらけとかなりの田舎だ。
その割に大きな神社が一柱佇んでいて、まるでひと昔の風景でも見ているようだった。
手を繋いだまま歩く香織ちゃんは、その間ずっと足がおぼつかない様子で、一緒に歩いていてとても不安だった。
町と言うより村と言った方がしっくり来るこの場所に着いたのは九時を回るかどうかの時刻だったため、私たちは三十分以上歩いたと言う事になる。
香織ちゃんも流石に疲れた様子だった為、村が見えた辺りで私は彼女をおぶってここまで歩いてきた。
山から村へは一本の道が通っていて、山から降りてすぐの場所にポツリと一軒だけ家が立っている。
「あら! 香織ちゃんじゃない! また一人で山に入ったのね!」
家の前で竹箒を振るっていた女性が、血相を変えてこちらに近づいてきた。見たところ三十歳過ぎたくらいの綺麗な人だった。
「こんなに傷だらけになって⋯⋯目が見えないんだから一人で出歩いちゃダメだって言われてるのに⋯⋯」
その人の言葉に、私は驚きを隠せなかった。
「ちょっと待ってください! 目が見えないって⋯⋯」
「この子ね、生まれつき目が見えないの」
「そんな! それなのに、杖も無しで、一人で山に?⋯⋯」
私が嘆いていると、おねえさんが漠然とした様子で声を上げた。
「杖が無い!? 大変⋯⋯おばさんに知らせないと⋯⋯⋯⋯」
「おばさん?」
「この子の祖母。ちょっと待ってて! 直ぐに支度してくるから!」
お姉さんはそう言って、急いで家の中へと駆け込んでいった。
それから五分ほど待っていると、やはり急いで家から飛び出してきた。
「お待たせ! それじゃあ、行きましょう」
「あ、あの⋯⋯行くって、どこへ?」
私の質問に、怪訝な表情を浮かべながらも、おねえさんは言った。
「決まってるでしょ。香織ちゃんの家によ!」
こうして、私たちは香織ちゃんを自宅へ送り届ける事になった。
「ありがとうね」
香織ちゃんの自宅へ向かっている途中、おねえさんが突然、私に言った。
「え?」
「香織ちゃんを連れてきてくれて⋯⋯」
相当心配だったのだろう。その声音からは、心からの感謝と、肩を落としてしまうような安堵が感じられる。
「昨日からね、香織ちゃんのお母さん⋯⋯出かけたきり、帰ってこないの」
なんとなく察しはついていた。あの時、香織ちゃんの体は震えていた。きっと、お母さんが突然いなくなったのがとても怖かったのだと思う。
「香織ちゃんには、夜までに帰るって言ったらしいんだけどね。嫌な噂も耳に入るんだ⋯⋯」
「嫌な、うわさ⋯⋯?」
「破壊魔が近くに居たって」
「それ、詳しく教えてください!」
いきなり食いつく私の様子に戸惑いながらも、おねえさんは話を続けた。
「時間はお昼を過ぎたくらいかな? 香織ちゃんと二人で、買い物に出かけてたみたいなの。ほら、学校の近くにあるスーパー」
スーパーならさっき山を降りる途中で見えた。
山から繋がる一本道を進み突き当たりを西に進むと大きな神社が立っていて、東に進むと、学校やら駄菓子屋やら、村の中でも多少賑わいのある通りに入るみたいだった。
スーパーは学校の道路を挟んだ向かい側にあった。
「突然香織ちゃんのお母さんが出かけてくるって彼女に言ってどこかへ行っちゃったらしいんだけど、その時に少し離れた所で一人の男が立っていたらしいの」
「その男が、破壊魔って事?⋯⋯」
「あくまで噂だけどね⋯⋯それから香織ちゃんは、お母さんを探しに一人で山に足を運ぶようになったの。これでもう四回目。毎回声を上げて泣いて帰ってくる。『お母さん、どこ?』って⋯⋯」
切なげな声だった。おねえさんは今にも泣きそうになるのを堪えながら話していた。
「香織ちゃん、私と会った時、『お母さん、おかえり』って言ったんです。その時の私、すごく落ち込んでいて、嘘をつきました⋯⋯『そうだよ。お母さんだよ』って⋯⋯」
「え?⋯⋯」
話していくうちに、瞳から涙が浮かんでくる。気づけば、溢れ出す涙を抑えきれずに、両頬を伝って地面に垂れていた。
「私、最低な事をしました⋯⋯お母さんなんて。そんな責任背負える訳ないのに⋯⋯⋯⋯」
香織ちゃんの気持ちを考えると、自分の行動に腹が立って、辛くて、悲しくて、何より、醜くて⋯⋯
そんな自分を激しく責め立てるよう際限なく流れる涙を拭う筈の手は、香織ちゃんを背負うのに使われていて、その涙を止める術は見当たらなかった。
「⋯⋯!」
突然伸ばされた手に、ビクついてしまう。その手には、私の涙を拭う為のハンカチが掴まれていた。
「無責任なんかじゃない。ねえ、知ってる?⋯⋯」
私の代わりに涙をハンカチで拭きながら、おねえさんも涙を流して、震える声で言った。
「人を救う嘘もあるんだよ⋯⋯⋯⋯」
その言葉が例え気遣いだとしても、その瞬間だけは、どれほど私の心を救ってくれたか⋯⋯
更に溢れ出す涙が証明してくれていた。
「ありがとう⋯⋯ありがとう」
それから暫く、おねえさんは私の涙を拭いながら繰り返しそう言っていた。