破章
夏のジメジメとした空気が、俺の身体の隅々にある毛穴から汗を噴き出させる。エアコンはあるが、電源は入っておらず、扇風機の心もとない温風が意味も無く俺に向かって吹いている。
「あっつ⋯⋯」
額から垂れる汗を腕で拭き取るのは、ただ単にむせ返りそうな空気に充てられているからだけではない。無心に見つめるテレビの液晶。力無く握るコントローラー。俺の睨みっこの相手はテレビゲームだ。とは言え、内容は全て知っているシュミレーションゲーム。何度もプレイしたことのあるゲームをひたすら繰り返しプレイしていた。手に汗を握っていたのは、たまたま指が当たって選択肢を間違えた事への苛つきからだった。
「くそ⋯⋯」
自分で言うのは可笑しいが、元々、俺はそんな小さなことで心が乱れるような性格ではなかった。最近は、精神が安定しないことが多い。そう思い出したのは、きっとあの時から。
借金をこさえた父。毎日のように家の扉を叩く取り立て。そんな生活が始まったのは、俺が高校を卒業して直ぐの事だった。
理不尽に募る金利。取り立て屋の重圧に耐えられなくなった父は、橋から飛び降り自殺した。責任の在処は親族である俺らに移り、父が死んだ後も、取り立て屋は家の扉を毎日叩いた。
母は借金の肩代わりで完済を試みた。だが、その額は想像を遥かに超えていて、とてもじゃ無いが返すことは不可能だった。
母は病んだ。毎晩泣いていた。毎日お酒を飲んでいた。それでも、お金を稼ぐために、仕事を始めた。給料は毎月借金に回した。その結果、生活費が足りなくなった。
それでも母は頑張った。俺も夢を諦め、大学に行かず、仕事についた。俺の給料を生活費に回した。母はよく「ごめんね」と泣いていた。なぜ母が謝るのか。悪いのは母では無いのに⋯⋯なぜ母がこんな思いをしなければいけないのか。借金を作ったのは母では無いのに⋯⋯
なぜ、俺が、俺たちがこんな惨めな思いをしなければいけないのか。悪いのは、悪いのは⋯⋯
「全部、親父なのに⋯⋯」
苛立つ理由を探して、八つ当たりのようにコントローラーを握る力が一瞬強くなる。心を落ち着かせるように手に取ったたばこ。手慣れた手つきで火をつけ、煙を肺に入れ込んだ。
初めてこの味を覚えたのは、取り立て屋の怖いおじさんに無理やり吸わされた時。それからずっと、こいつに依存してしまっている。
土曜日なのに静かな部屋に、吹き出した煙が充満する。母は今日も働いている。外からは、休日という事もあり、子供たちの遊ぶ声が響き渡っていた。
「僕がボンっ! て言ったら、お前は死ぬ!」
「なんだよそれ! 反則だよ!」
「はいスタート! ボン!」
「そんなのつまんない!」
「いいから! ボン! ボン! ボン!」
それで本当に人が死ぬなら、どれだけ楽か。子供の遊びにすら苛立ちを感じてしまっている。何も考えずに、汚い言葉の意味も深く考えずに、簡単に口に出す。そんな幼稚さを咎めていたらきりが無いと言うのに。
「ぼん⋯⋯」
試しに呟いてみた。勿論何も起きない。
一瞬でも、爆発してくれたらいいな。と思った自分が馬鹿みたいだ。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯
子供たちの声が聞こえなくなった。喧嘩でもして帰ったのだろうか。まあ、興味はないが。
どん! どん! どん! どん!
突如玄関から鳴り響く鈍い音に、一瞬肩が跳ね上がる。そして直ぐに感づく。今日も来たのか⋯⋯
「久木さ〜ん! 居るんでしょ〜? 出てきてくださいよ〜!」
ノックとはとても言えない扉を殴る音が、段々と速度を上げていく。不定期に鳴らされる呼び鈴の音も、段々と、繋がって聴こえるかのように連続して鳴らされる。
「おい! 居留守決め込んだって無駄だぞ! さっさと出て来い!」
取り立ての嗜めるような声も、キレの効いた怒声へと変わっていく。いつも通りの光景だ。父が借金をこさえてから、毎日、俺たちは苦しんできた。
憎い。人の心を持たない、クズみたいな取り立てが憎い。
憎い。借金を作って逃げた無責任な親父が憎い。
憎い。金が全ての、この世の中が憎い。
憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い
俺たちを苦しめる、人間が、憎い⋯⋯みんな、爆死してしまえばいいのに⋯⋯
「ぼん」
無意識に、そう呟いていた。無意識だが、殺意と憎悪を込めた一言。
びしゃ! びしゃ!
何かが裂けるような酷い音が扉の向こうからした。その音を境に、扉を叩く音も、呼び鈴を連打される音も綺麗さっぱり聞こえなくなった。
嫌な予感がした。まさか、そんな訳が無い。そんな事がある筈がない。
俺は立ち上がると、恐る恐る玄関に足を進めた。ドアノブに手をかけ、扉を開こうとしたが、何かがつっかえてうまく開ける事ができなかった。
扉の隙間から、外を除く。途端に異変に気づく。
俺たちが住んでいる格安アパートの外廊下の床は、防水のシートが轢かれていない。つまり、ねずみ色のコンクリートだ。そのコンクリートの表面に、気分の悪くなる褐色の混じった赤い液体が滲んでいた。
「ひいっ!」
慌てて扉を閉める。何が起きているのか分からなかったが、この扉の先で何が起きたのかは、可笑しいほど想像がついてしまった。
「違う。違う。そんな訳ない。そんな筈、無いだろ⋯⋯うっ」
突然口から何かが溢れ出そうになり、急いでトイレへと駆けた。不快な感覚と、途轍もない刺激臭。まるで胃の奥から引っ張り出されたかのように朝食べた物たちが胃液と共に溢れ出た。
「俺が、やったのか⋯⋯?」
可能性は考えた。他に誰か居て、二人を殺した可能性だってある。だが、状況とタイミングからして、その可能性は低かった。
もう一度、玄関へと向かう。固唾を飲み込み、今度は力強く扉を開いた。鳥肌の立つ音と共に、何かが強引に押し出される感触が伝ってくる。
「嘘⋯⋯だろ」
声が震えた。体が震えた。俺が見下ろす先に転がっていたのは、人と言うにはあまりにもぐちゃぐちゃになっている二つの遺体だった。そう。まるで、体の底から破裂したかのような。
再び強く催した吐き気に慌てて振り向くが、今度はトイレまで間に合わなかった。引き結んだ口を強引に開くような濁流が喉の奥から流れ出た。
玄関が俺の嘔吐物で汚れていく。とは言っても、先程トイレで吐いた際に、出るものは全て出し切ってしまっている為、液体だけが吐き出されていった。
全て吐き出してからも、スッキリなどせず、全身を倦怠感と震えが襲う。だが、俺には確認する事があった。その答えによって、自分の馬鹿な考えをかき消したかったから。
俺は玄関へ足を進めようとした。おぼつかない足で、体が倒れないよう壁に体を預けながら。
その時だった。外がなんだか騒がしくなっていることに気づいたのは。耳を澄ますと、サイレンのようなものが響き渡っている事にも気づいた。
慌てて玄関から外に出る。途中、倒れそうになったが、なんとか持ち直して窓に寄りかかった。
玄関から外を見下ろす。俺は、言葉を失い、その場にお尻から倒れ込んだ。
「嘘だ⋯⋯嘘だ嘘だ嘘だ⋯⋯」
そこにはパトカーや救急車。その周りを何十人もの人混みが取り囲んでいた。そしてその中央には、子供二人の破裂した遺体があった。
先程外で遊んでいた子供達だった。突然声が聞こえなくなったのは彼らが死んだから。そして彼らが死んだ時と、取り立て屋が死んだ時の状況には一致する点があった。
考えるな。
一致する点。
考えるな⋯⋯
どちらもなんの予兆もなく突然死んだ。
考えるな⋯⋯⋯⋯
そのタイミングは。
考えるな。考えるな。考えるな。考えるな。かんが⋯⋯⋯⋯
『ぼん』
俺がそう発した瞬間だった。
今考えれば、その時点で俺は確信していたのかもしれない。自分が途轍もなく恐ろしい、人間では無い何かになってしまった事に。