一 千年寵姫、モグラに生まれ変わる⑧
あまり長くとどまっていては体調が万全でない雪寧の負担になる。焔幽は適度なところでおしゃべりをやめ、腰を浮かせた。
「それじゃ、ゆっくり養生するように」
「はい、ありがとうございます」
愛らしい妹に目を細め、焔幽は彼女の髪に手を伸ばした。金細工の簪にそっと触れる。
「これは俺がやったものだな。よく似合っている」
雪寧の顔がパッと輝いた。褒められてうれしいのだろう。
「うふふ。この美しい簪に合わせて大人っぽい髪型にしてみたのです。翡翠妃さまのような!」
「ほぅ」
(翡翠妃。はて、どの女だ?)
なんでもない顔で相づちを打ちはしたが、焔幽には翡翠妃が誰なのかさっぱりわからない。宝石の名を冠していることから、この千華宮に集められた自身の妃のひとりだということは理解できるのだが。
宮持ちの、妃の位を与えられている女はたしか二十名ほど。
その誰のもとへも、焔幽はまだ一度も通っていない。閨の管理を担当する宦官からはいさめられたり、泣きつかれたりしているが『即位直後でそれどころではない』と突っぱねていた。
女の相手は面倒だから……というだけではない。
(誰に寵を与えるかは政治的にも大事な問題だ。慎重に吟味したい)
史書を紐解いてみても、悪女の逸話ははいて捨てるほど記されているが……良妻、賢母と評された女は非常にまれだ。よき妻を得ることは万の大軍を味方につけるに匹敵するという教訓は、まさしく真理であろう。
「では、またな」
踵を返そうとしたところで、ふと思いついて焔幽は言った。
「お前のその髪を整えた女官、大事にしろ。春麗や妃嬪たちに奪われぬようにな」
これだけ凝った髪型を美しく整えられるのだから、さぞかし器用なのだろう。雪寧に似合うものをよく理解していて趣味もいい。有能な女官は奪い合いだ。
雪寧は幾度か目を瞬き、それからクスリと笑った。
「本人にはわざわざ話すなと釘を刺されているんですが、話題に出したのは陛下のほうだからしゃべってもいいかしら。この髪をやってくれたのも香蘭なんです」
「香蘭……とは先ほどの?」
「はい! 千華宮には来たばかりなんですけど、彼女は本当に頼りになるんですよ」
雪寧は受けた教育を真面目に実践する素直な娘なので、女官への態度は公平・平等を旨としていた。その彼女が皇帝である自分の前でひとりの名をあげて褒めるとは……よほどお気に入りなのであろう。
雪寧の宮を出たところに夏飛が控えていた。
「待たせたな、夏飛」
「いえ。雪寧さまに大事なく、なによりです」
朱雀宮のほうへ足を向けようとしたそのとき、夏飛が「おや?」と声をあげる。彼の視線の先を追いかけてみると、ひとりの女が前庭の花の世話をしていた。
「さっき場をうまく指揮していた女官ですね」
「あぁ」
大柄な身体を丸めて、ノソノソとなにかを運んだりしている様子を眺めて焔幽は言う。
「モグラみたいだな」
ぶっと夏飛が噴き出す。
「陛下。女性になんて失礼なことを」
自分だって笑ったくせに、夏飛が正義漢ぶったことを言っている。
「別にけなしたつもりはない」
(……香蘭か)
焔幽は先ほど聞いた彼女の名を心のうちでつぶやく。彼が女官の名前を認識したのは、これが初めてのことだった。
「ところで、そろそろ本腰を入れて三貴人くらいは選んでくださいね。爺が顔を合わせるたびに、まるで僕のせいだと言わんばかりにグチグチと小言を」
夏飛はうんざりした顔でぼやく。爺というのは閨の管理をする担当専門部の長官、秀由のことだろう。
皇帝がどの妃のもとに渡ったかというのは国家の一大事なので、専門の部が設けられそれなりの人数が職務にあたっているのだ。焔幽が妃嬪のもとに通わなければ自分たちの存在意義がなくなると、焦っているらしい。
「わかってはいる」
これだけの女が一か所に集められているのだ。ある程度の序列があったほうが統率が取れる。軍隊と同じだ。
「陛下は妃嬪に求める理想が高すぎるんですよ~」
高い空を仰ぎ焔幽は言った。
「千年寵姫、貴蘭朱。俺はあれが欲しい」
貴蘭朱を手に入れたうらやましい男の名は伯階という。
伯階帝の時代については、飽きるほどに書物で学んだ。彼は瑞国史上で三本の指に入る賢帝と謳われているが、どれも皇后蘭朱を亡くす前の若い頃の功績だ。
晩年はむしろ凡庸以下の皇帝だったと思う。史家たちの間では『伯階帝は愛する皇后を失ってからは体調を崩しがちだった。そのせいで満足な指揮を取れず治世が乱れた』というのが定説だが、焔幽は違う見解を持っている。
(伯階帝の功績はすべて貴蘭朱がもたらしたものだ。あの男自身の功績は、貴蘭朱を手に入れた。その一点のみ)
「貴蘭朱は七十年前に死んでます。幽鬼では子を産めませんから諦めてください」
幽鬼とはこの世に残ってしまった死人の魂のこと。焔幽は顔をしかめて夏飛をにらむ。
「言葉の裏を読み取れ。千年寵姫に匹敵する女が欲しいという意味だ」
「読んだうえで言っているんですよ! 彼女に匹敵する女を見つけるなど、幽鬼が子を産むより難しい」
「……なるほど。だが、欲しいものは欲しい」
焔幽の瞳が、この男にしてはありえないほどの純粋さでキラキラと輝く。
そう、焔幽は貴蘭朱の熱狂的な信奉者なのだ。彼女のことを調べたり、考えたり、想像しているときだけは焔幽の冷めきった心も熱くなる。
彼女のどこが素晴らしいかといえば〝夫である伯階帝をいっさい愛していなかった〟点だ。
相思相愛のおしどり夫婦だったと史書には記され、世間もそう信じているが……焔幽にはわかる。
貴蘭朱の功績を丁寧に紐解いていけば、彼女がなにを考え、どんな判断をくだしたのかが見えてくる。彼女は夫を愛してなどいない、〝夫を愛し支える理想的な皇后〟の役目を完璧に果たしただけだ。
自身の感情を殺し、仕事に徹することができる。なんと素晴らしい女人だろうか。万人の上に立つにふさわしい人間だ。
(俺を決して愛さない。だが、それを誰にも見破らせない。そういう女が欲しいんだ)
「現実を見てください、現実を。なにせ千年寵姫ですからね。あと九百三十年待たねばなりません」
夏飛は厳しく主をいさめた。
一章はここまでです。引き続き読んでいただけたら嬉しいです。
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