一 千年寵姫、モグラに生まれ変わる⑦
犯人捜しの気配は雲散霧消した。そこに宮中医を連れた夏飛が戻ってくる。
「入るぞ」
そう声をかけて焔幽は室の扉を開けた。女官たちは、焔幽の訪れのことなど忘れかけていたのだろう。大慌てで礼をとる。が、焔幽は軽く手を振り、それを制した。
「よい。仰々しいのは公の場だけで十分だ」
そのまま夏飛と医師を従えて、雪寧の寝台に近づく。
「雪寧さまが伏せっていること、ご存知だったのですか」
恐れもせずに、まっすぐな眼差しを向けてきたのは先ほどまでこの場を仕切っていた女官だ。彼女と焔幽の視線がぶつかる。
ごわついて硬そうな髪、日に焼けて雅さの欠片もない肌、衣服の裾は土で汚れている。顔立ちそのものは醜いわけではないが、いやに凛々しい眉に大きな口とものすごく男性的だ。
(そのへんを歩く宦官のほうがよほどたおやかだな)
田舎くさく野暮ったい。にもかかわらず、女には妙な威厳があった。歴代皇帝のなかでも随一の覇気があると称されている焔幽がほんの一瞬気圧されたほどに。
(なんなんだ、この女官は)
「あぁ。先に行かせたこの夏飛が騒ぎを聞きつけて俺に報告してくれたのだ」
聞きつけたとき、すでに自分も一緒だったことは黙っておく。
「まぁ! それは話が早くて助かりましたわ。お医者さま、雪寧さまをよろしくお願いいたします」
女はまるで焔幽を小間使いのように雑にあしらい、医師に雪寧の症状の説明をはじめた。
彼女は雪寧に仕える女官。主は焔幽ではなくあくまでも雪寧、彼女を大事にすることは職務に忠実であるといえる。だがしかし……。
自分のために数多の女を集め存在している千華宮。この場所で、ここまでぞんざいな扱いを受けるとは思ってもみなかった。さすがの焔幽も呆気に取られた。すぐ後ろに控えている夏飛がクックッと笑いをこらえているのも気に食わない。
医師の見立ては軽い食あたり。ひと晩休めば治るだろうとのことだった。
護衛役の夏飛だけを扉の前に立たせ、焔幽は雪寧とふたりきりになった。
「大丈夫か、雪寧」
布団から顔を半分だけ出した彼女は恥ずかしそうに頬を染めた。
「はい、医師にもらった薬が効いてきました。せっかく陛下がお茶をと誘ってくださったのに申し訳ありません」
「茶などいつでもいいから気にするな。それから、無理して陛下などと呼ばずとも以前と同じように『焔幽お兄さま』で構わぬ」
ふたりは異母兄妹だが母を早くに亡くした同士、同母の兄妹に近い親しみを互いに抱いていた。
「いいえ、けじめは大切なものだと公主教育で学びましたから」
焔幽は頬を緩めた。この生真面目な点も非常に好ましいと思っている。
雪寧は自分の前ではかわいい妹に徹してくれる。公主のなかでも皇帝のお気に入りだと出しゃばったり、過剰になにかを求めてきたりしない。焔幽はたとえ身内であっても、自身の内側に踏み込まれるのを嫌う。人の感情の機微を読むのが上手な雪寧はそれを理解しているのだろう。
「ところで、雪寧。お前に腹痛をもたらした犯人はいったい誰なんだ?」
おおかたの予想はついているが、少しおもしろがって焔幽は彼女に問いただした。雪寧はバツが悪そうに視線を泳がせる。
「お前は知っているんだろう」
あの女官は雪寧に目で合図をしていた、「黙っておけ」と。
雪寧は観念したようで、小声で真実を告げた。
「それはその……私自身です」
なんでも二日ほど前に出た菓子がたいそう美味で、雪寧はそれをえらく気に入ったのだそうだ。
「ひと口ぶんだけ取っておこうかな~と思いまして」
食い意地が張っていると思われるのが恥ずかしいので女官たちには内緒でこっそりと紙に包み、引き出しにしまったそう。
「なるほど。それを今日になって食べたわけだな」
あまり日持ちのしない菓子で悪くなっていたのであろう。
「味見係の鵬朱が『菓子は白くなりかけたくらいがおいしい』とよく言っていたので」
「腐りかけを食べ慣れている人間とは耐性に差があるだろう。今後は気をつけろ。女官たちを余計な仕事でわずらわせるのもよくないことだ」
雪寧は申し訳なさそうにうなずいた。
「ところで、さっきの女官はなぜお前自身が犯人だと気がついたのだ?」
あの女は雪寧自身に原因があるとわかったうえで、雪寧の名誉のためにあの場をごまかしたのだろう。
(主人に恥をかかせぬように。女官としては満点の立ち回りだな)
その心遣いを千華宮の主である焔幽にもしてもらいたいものだが。
「あぁ! 香蘭は私の襟元についていた菓子の残りクズで気がついたのだと思います。みんなに気づかれぬようさりげなく払ってくれました」
「なんだ、そんなことか」
焔幽はかすかに肩を落とす。驚くべき推理力の持ち主なのかと期待したが、違ったようだ。
(いやでも、目端のきく女であることは確かだな)