一 千年寵姫、モグラに生まれ変わる⑤
なにやら宮のなかが騒がしくなったのは、掃除を終えたふたりが箒を置きふぅと息を吐いたときだった。
香蘭は雪寧の部屋のほうを振り返る。
「にぎやかですね。陛下がいらっしゃったのかしら?」
「でも、宮の入口はここよ」
詩清の言うとおりだ。彼が来たならここを通るはずだが、ふたりはそれらしき人物を見てはいない。香蘭ははてと小首をかしげた。
「陛下が裏窓からこっそり忍び込んだとか? 恋物語にはそういうシーンがたびたび出てきますよね」
「陛下がそういうことをするキャラだなんて聞いたことないわよ。そもそも雪寧さまとは兄妹なんだから恋物語にはならないでしょう?」
「禁断の恋とやらも定番ですよ。障壁が高ければ高いほど、恋は燃えあがるものです」
「だからモグラが恋を語っても滑稽だから、やめておきなさいって」
くだらない応酬を続けながらも、ふたりとも宮の様子が気にかかっていた。どうも、にぎやかというより、大混乱の様相を呈してきているからだ。
「見に行こうか」
詩清の言葉でふたりは雪寧の室に向けて駆け出した。
「どうかしたの?」
室に入るなり、詩清は親しい女官に声をかける。
「それがね、雪寧さまが……」
急に腹痛を訴えて苦しんでいるのだという。奥の寝台、布団がこんもりしているがあのなかに彼女が丸まっているのだろう。「う~ん」とうめくような声がかすかに聞こえた。
「食事が悪くなっていたとか?」
「でも、毒見をした女官はピンピンしているわよ」
雪寧は儚げな容姿をしているが身体は丈夫だ。みな原因がわからず困り果てているという状況のようだ。
「……春麗公主の嫌がらせでは?」
誰かがぽつりとこぼした声に室がシンと静まり返る。春麗は雪寧にとって三番目の姉で、年は十六。あまり器量がよくないために劣等感をこじらせている様子で、見目のよい雪寧がとくに気に食わないようなのだ。
「そういえば、朝も通りがかりになにか嫌みを言ってらしたわよね。そのときに食事用の器になにか入れるのは不可能ではないかも」
「ありえるわね。あまりいい嫁入り話が来ないと最近はとみにイライラなさっておいでだから」
「それを言うなら、ほかの公主さま方も」
いやいや、妃嬪候補としてやってきた女性のうちの誰かでは? そんな調子で犯人捜しが始まってしまった。
新入りの自分が場を仕切るのは出しゃばりすぎだろうと、香蘭は黙って事態を見守っていたのだがいっこうに埒が明かない。痺れを切らして、口を開いた。
「落ち着きましょう。今大事なのは原因ではない。苦しんでいる雪寧さまを回復させるという結果を求めるべきだわ」
凛としてよく通る声には妙な貫禄があった。従わなくてはという気にさせられて、誰もが口をつぐみ香蘭を見た。
「まず、宮中医は来てくださらないのでしょうか?」
香蘭は尋ねた。宮中には専属の医師と薬師がいる。彼らに診てもらうのが一番いいのだが、返ってきた答えは香蘭が予想したとおりだった。
「もちろん呼んだわ。でも『向かうが、少し時間がかかるかも』とのことで、いつになるのか」
残念ながら彼らは崇高な使命感など持ち併せていない、ただのお役人だ。力のない雪寧など後回しということなのだろう。
「でも、じきに陛下がいらっしゃるわ。陛下を通じて依頼をかければ飛んでくるでしょう」
その言葉にみなの顔がパッと明るくなる。
「あぁ、たしかにそうね。不幸中の幸いだわ」
ところが、ここで詩清が余計なひと言をつぶやいた。
「……けど、私たちの管理不行き届きってことで陛下がお怒りになったりしないかしら」
みなの顔がさーっと青くなる。室はまたいっせいに騒がしくなった。
「陛下は氷のように冷酷な方だといううわさよね」
「一族郎党皆殺し?」
「……どうしよう。雪寧さまに食事の膳をお運びしたの私だわ」
「ま、窓から逃げれば間に合うかも! ほら、すぐに行くのよ」
膳を運んだ者は公主の女官とも思えぬはしたない姿で窓に足をかけた。
上を下への大騒ぎになりはじめたので香蘭はパンと一度大きく手を叩いた。前世、皇后時代の癖がつい出てしまったのだが、高い音はこういう場面では抜群の効果を発揮する。みながハッと我に返った。
「食材の管理はいつもどおりでしたか?」
香蘭はその仕事を担当した者に顔を向ける。
「もちろん。手順を守っているわ」
次に香蘭は、ぐるりと室全体を見渡す。
「念のため聞きますけど、このなかに毒を入れた者はいませんよね?」
全員がコクコクと素早く首を縦に振る。
「では堂々とそれを陛下に説明しましょう。逃げたりしたら犯人だと名乗っているも同然になります」
「だけど、相手はこの瑞国皇帝よ。陛下は白だと言えば、黒いものも赤いものも白になるんでしょう?」
おびえた顔の詩清に香蘭はにっこりとほほ笑んだ。
「黒を白だとおっしゃるような陛下であれば、この国の守り神である朱雀が黙っていないでしょう」
「どういうこと?」
香蘭の言葉の真意をつかみかねて、詩清は眉根を寄せる。香蘭はからりと笑う。
「そうですね。意訳しますと、クソ食らえってことですわ」