終章③
「陛下!」
日頃は面倒と思いながらもこなしている入室までのやり取りをすべてすっ飛ばし、香蘭は焔幽の部屋の扉を開ける。なかにいた彼がゆっくりとこちらを向く。
濃紫の衣が彼のキリリとした美貌を引き立て、あいかわらずの美丈夫ぶりだ。
幽鬼騒動でトラウマを乗りこえたおかげか、このところ一段と逞しくなったように見える。
「あぁ、香蘭か。ちょうどよかった、お前を呼ぼうと思っていたところだった」
香蘭は彼の前に座り、険しく眉根を寄せる。
「なんだ、その顔は。死にそうなモグラのマネか?」
「たった今、秀由さんに会いました」
焔幽は唇の端をニヤリとあげる。
「それは話が早くてありがたいな」
「皇后を、お決めになったとか?」
「あぁ、決めた」
決意を秘めた彼の瞳に香蘭の嫌な予感はほぼ確信に変わる。
「あらゆる面で、この千華宮で……いや瑞国中でも、もっともその地位にふさわしい女だ。誰だと思う?」
焔幽の声はこれ以上ないほどに楽しげだ。
香蘭は弱りきった様子で額に手を当てる。そのままがくりとうなだれた。
「――私、しかおりませんね。考えるまでもなく、最初からわかっていたことです」
香蘭の出した答えに焔幽はククッと肩を揺らす。
「ですが、ひとつ訂正を。瑞国中ではありませんよ。世界中です。なんならあの世まで捜索範囲を広げても、この私より皇后にふさわしい女人はいないでしょう」
「あの世には、貴蘭朱がいるぞ」
「あの程度の女はライバルにもなりませんよ」
蘭朱はちょっと美しすぎて面倒も多かった。それに香蘭の身体のほうが丈夫でよい。世の仕事の大半は体力勝負、皇后とて例外ではない。
香蘭はふと焔幽の顔を見た。曇りのない澄んだ瞳の真ん中に、香蘭が映っている。
(なによりこの人は、伯階帝よりははるかにマシな夫になるでしょうし)
蘭朱の夫は、伯階は困った人物だった。焔幽は間違いなく彼より優れた皇帝になることだろう。
「では決まりだな。三貴人はお前が決めろ。俺の妻ではなく皇后の臣下という視点で選べばよい」
この話は終わったとばかりに、彼は話題を変えた。
「そういえば、お前はなぜあんなに妖術に詳しかったのだ? 他国の生まれでもないのにと、夏飛がまた気味悪がっていたぞ」
「あぁ。妖術には痛い目を見たことがありまして」
香蘭は遠い目をする。
「ほぅ、実際に見たことがあったのか」
「えぇ、まぁ」
見たというより体感した。遠い過去の記憶がありありと蘇ってくる。
(そう、あれは蘭朱が病に倒れてすぐのことでしたわ)
* * *
伏せっている皇后、貴蘭朱の室に時の皇帝、伯階が飛び込んできた。
「蘭朱! 体調が優れないとは、本当なのか」
彼は蘭朱の枕元に膝をつき、最愛の妃の白く美しい手を握り締めた。
「まぁ。お忙しい陛下にご心配をおかけしてしまい……心苦しいですわ」
「あぁ、とてつもなく心配だ。私の愛おしい蒼玉に、なにかあったらと思うと夜も眠れん」
蘭朱を溺愛する彼らしい台詞だ。だが、かすかな違和感が蘭朱の胸に沈んだ。
「王都中から優秀な医師を呼ぼう。しっかり養生してくれよ」
言葉とは裏腹に、伯階の目はせわしなく泳いで蘭朱を見ようとはしない。彼は恐れているのだ。
たおやかに見えて異常に勘の鋭い蘭朱に、なにかを見破られてしまうのを。
(もう一歩が足りない方、そう思っていましたけど……やっぱり一国の君主としては演技力も浅いですねぇ)
蘭朱は〝愛情〟と縁遠い人生を送ってきた。生家は貧しく、口減らしのために美しい蘭朱をはした金でこの千華宮に売り飛ばした。
ここに来てからも、妬み、嫉み、あらゆる悪意を受け続けてきた。
そんななか、彼--伯階の自分への愛は本物だった。それがわかったから、こうして皇后となり彼を支えてきたのだ。
蘭朱は〝愛〟を理解できない。だから愛を返すことはできないけれど、それ以外のすべてを伯階に贈ろうと思ったのだ。有能で信頼できる臣下、君主を敬愛する民衆、豊かで美しい国土、歴史に残る名声。
けれど、やはり愛を贈らなくてはいけなかったのかもしれない。人間はきっと最後にはそれを求めてしまう生きものなのだろう。
今の夫の眼差しには自分への愛はもうどこにも残っていない。彼の瞳に宿るのは、恐れと悲しみだ。
(なるほど。愛は……永遠ではないのですね)
蘭朱はそれを理解した。
伯階の去った室で、蘭朱は天井に向かってゆっくりと両手を伸ばした。
(私のこれは、きっと病ではない。なにかもっと別種の……)
妖術。ふと頭に浮かんだその語句が、蘭朱の思考を占拠した。
いくらか体調がマシな日に蘭朱は床から起きあがり、とある男を捜した。妖術師の家系に生まれ、自身も術の心得えがあると言われている宦官だ。
(体調不良の原因が妖術ならば、医師や薬では治りませんものね)
現在の蘭朱は国中から敬愛を受けているが、それでも恨みを持つ者のひとりやふたりはきっといることだろう。
朱雀宮の入口のところで男を見つけた。彼はひとりではなく、誰かと一緒だった。
背が高く逞しい肉体を持つ……時の皇帝、蘭朱の夫である伯階だった。
蘭朱は息をのむ。が、考えてみれば当たり前のことであった。今の自分は、皇后という圧倒的な地位と権力を手にしている。そんな蘭朱を害そうとする人間など彼以外にはありえない。
「陛下、本当によろしいのですか? 大切な大切な〝千年寵姫〟さまですよ?」
宦官はひどく狼狽した声で伯階に訴えている。そんな彼とは対照的に、伯階はきっぱりとうなずいた。
「よい。なぜなら――」
夫が自分を殺そうとする理由。それを聞かずに蘭朱はサッと踵を返した。
理由を知る必要はないと思ったのだ。彼が蘭朱の死を望むのならば、叶えてやろう。
(愛は贈れませんけど、死なら贈ることができますから)
* * *
香蘭は大きく息を吐いた。
(貴蘭朱は病死ではなく、妖術に殺された)
死んだ当人である香蘭、術をかけた妖術師、そして彼に命じた伯階しか知らない真実だ。
蘭朱は理由を聞かなかった。それどころか、自分が伯階の殺意を知っていることすら誰にも打ち明けずに死んだ。
なので彼の胸のうちの、本当のところはわからない。自分より優秀な妻が疎ましくなったか、いつまでも愛を返さない蘭朱を憎むようになったのか……。
あるいは、愛が深すぎた結果だったのかもしれない。
(であれば、私は本当に罪深いですわね)
どちらにしても、愛とは厄介なもの。それだけはわかる。
香蘭は焔幽と同じかそれ以上に、愛を厭うているのかもしれない。
伯階とは全然違う、焔幽の瞳がスッとこちらに向けられる。
「ということで、お前の宦官姿も見納めだ。そろそろ香蘭に戻れ」
「お待ちくださいませ」
彼が本気で香蘭を皇后に据える気でいるのを悟り、香蘭は慌てて彼の衣の袖を引く。
「もっともふさわしいのはたしかに私ですが、なるとは言っておりません」
焔幽は真摯な表情で香蘭をまっすぐに見る。
「知性、教養、人柄。すべての面でお前がふさわしいと政治的な判断をくだした」
「美貌。美貌をお忘れですよ、陛下」
香蘭の突っ込みを焔幽は苦笑で受け止める。
「だが、それだけじゃない。俺がただお前にそばにいてほしいのだ。胡香蘭が隣にいる日々はさぞかし幸せだろう。そう思った」
柔らかな声が香蘭の胸に染み入る。愛におびえていた彼がそれを乗りこえ、新しい一歩を踏み出そうとしている。
その純粋さと強さがまぶしい。
愛は永遠ではなく、厄介。何度生まれ変わっても自分には理解できぬもの。
そう思っているのに、焔幽の情熱にほだされそうになってしまった。策略を巡らすのが得意な香蘭は、真っ向勝負にはとんと弱いのだ。
「どうだ、香蘭」
ハッと我に返り、ブンブンと首を横に振った。
「いいえ、皇后にだけはなりません。――寵愛はもう、こりごりですので」
了
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