七 彼を巡る愛憎⑤
「了解!」
低木の茂みから夏飛と数名の宦官が飛び出てきて、声の主を取り囲む。
「……雪寧」
焔幽のかすれた声が真犯人の名を呼ぶ。
昼間、彼女に会ったときに香蘭は見た。彼女の手首に巻かれているそれが〝本物〟であるのを。
雪寧のそれはガラス玉でなく、半貴石。艶やかな黒玉だった。
妖術を使っているのは彼女だと確信した。だから、香蘭は堂々と優雅に大嘘をついたのだ。
焔幽は自分を放してくれない。その言葉とともに、勝ち誇ったような、見た者を絶妙にイラ立たせる笑顔を雪寧に贈った。雪寧を焦らせるためだ。行動を起こしてもらって、実行犯としてとらえるのが一番話が早い。
(とはいえ、犯人と呼ぶのはかわいそうですね)
彼女が本物を手にしてしまったのは、きっと偶然なのだろうから。千華宮で流行り出した腕輪。どう紛れ込んだのかはわからぬが、雪寧が手にしたのは本物の呪具だった。妖術師の力がたっぷりと封じられた恐ろしい代物。
雪寧はきっとあの黒玉に、愛する人の心をひとり占めしたいと唱えたのだろう。
夜は妖術の力がより強まる。
彼女は夜毎腕輪に操られ、雪寧であって雪寧ではない人間となりさまよった。そして、願いを同じくするあの幽鬼と共鳴し、香蘭を排除すべく動き出した。
「ええっと、腕輪の石を割ればいいんでしたっけ」
「そのとおりです。早く!」
黒玉が割れれば妖術の呪いは解ける。妖術を失った幽鬼は無力化し、人間に実害を加えることはできなくなるはず。
夏飛がグッと雪寧の腕を締めあげる。
「きゃあ」
雪寧の儚げな悲鳴に、彼はほんの一瞬力を緩めてしまった。
(あぁ、夏飛さん。ちょろすぎます)
香蘭は頭を抱えたい気持ちでそれを見ていた。
とはいえ相手は公主だ。夏飛がとっさに引いてしまうのも理解はできる。宮仕えが長い人間なら誰もがそうなる。
雪寧は迫る夏飛の手から逃れ、焔幽のもとに走った。
「焔幽お兄さま!」
彼女が彼をそう呼ぶのを香蘭は初めて聞いた。
節寧の華奢な身体は焔幽の胸のなかにすっぽりとおさまる。切なげに潤む瞳で彼女はしっとりと焔幽を見つめる。
妖術に操られてはいるが、香蘭にはこの表情は雪寧の素に思えた。
「私は……お兄さまが好きです。お兄さまも私を愛してくれていた。姉妹のなかでも私は特別だったでしょう?」
決して離すまいとでも言うように、彼女は焔幽の衣をキュッと握った。
香蘭は思い出していた。焔幽と雪寧、この兄妹がほほ笑み合う姿に強い違和感を覚えたことを。
焔幽のほうはたしかに兄妹愛だった。むしろ彼は妹だからこそ、愛することができていたのだ。
(けれど雪寧さまのほうは、女として彼を求めていたのですね)
血のつながった兄への許されぬ思い。若く純粋な彼女の初恋としてはあまりに残酷だ。
「叶わない……それならばいっそ……」
そのとき、雪寧の瞳が鈍く、妖しく輝いた。彼女の手がまるで舞うようにひらりと動く。焔幽の首元でなにかが光った。
「陛下、危ない!」
香蘭は叫び、一歩大きくふたりのもとへ近づいた。
やはり雪寧は妖術の力に操られている。袖に隠していた刃物のようなもので焔幽を狙ったのだ。
続く映像を見たくないと思い、香蘭は両目をつむりかけたが……焔幽は軽々と雪寧の攻撃を回避し、逆に彼女の両手を押さえた。香蘭はほぅと胸を撫でおろす。
「焔幽お兄さま……」
苦しげな声で彼は答えた。
「お前の気持ちに対する答えは、本来の雪寧に伝える」
彼は雪寧の手首から腕輪を奪い、ゴツゴツした大石めがけて叩きつけた。ピシッという硬質な音を立てて黒玉が真っ二つに割れた。
雪寧は糸の切れた操り人形のように、くたりとその場に倒れた。
幽鬼は登場したときと同じくザァと風を揺らめかせて、煙のように細くなり消えていった。




