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七 彼を巡る愛憎④

  中天に月がのぼる。


 月見の宴で見せてくれた、まろやかで優しい姿とはまた違う。今宵の月は真円に少し足りず、いびつだ。そして異様なまでに赤い。放つ狂気にのまれてしまいそうなほどに。


 辺りはシンと不気味なほどに静かだった。今夜の琥珀宮の護衛は香蘭ひとり。むろん自身でそう主張したのだ。


(余計な被害者を増やす必要はありませんから)


 香蘭は幽鬼が来ることを確信している。なぜなら、あの幽鬼と彼女を操る真犯人の狙いは香蘭だからだ。


(次々と宦官を襲ったのは、こちらを欺くため)


 幾人もの宦官が狙われ、その被害者のうちのひとりに残念ながら〝蘭楊〟も入ってしまう。そうすれば、最初から〝蘭楊〟が狙いだったとは誰も疑わない。


(たとえ、被害者のなかで私だけが命を落としたとしても)


 ひやりと冷たい風が吹いて、木々がザァーと揺らめく。辺りの温度が急激にさがり、香蘭は寒気を覚えた。緊張と興奮と恐怖、それらが入り交じってゾクゾクと肌が粟立つ。


「さぁ、いらっしゃいましたね。――琵加さん」


 そちらに視線を向ければ、待ち構えていたように柳の陰から彼女が姿を現す。すさまじいスピードで土気色の顔が迫りくる。さすがの香蘭も冷や汗が噴き出た。


「幽鬼というのは……もっとこう、おどろおどろしくゆったりと登場なさるものかと思っていましたが」


 癖のある長い髪が女郎蜘蛛の網のように広がり、獲物をからめ取ろうとしてくる。頬や唇はどろりと朽ち果てているのに、瞳だけが赤く爛々とした光を放っている。


 地を這うようなうなり声は、脳に直接ささやかれているようだ。


「――渡すものか。あれは私の、私だけのものだ」


 獣じみた鋭利な爪が香蘭の喉を目がけて伸びてくる。香蘭はサッと身をかがめて、それをよけた。


 地面に片膝をついて、幽鬼を見あげる。体術には自信があった。さらに、香蘭の身体はとても頑丈で多少の攻撃なら余裕で耐えられそうだ。


(ですが、化物が相手となるとさすがに……)


 幽鬼のくせに動きが俊敏なのは、ずるくないだろうか。


 香蘭はあっという間に彼女に組伏せられ、固い地面に頭をついた。


「くっ」

「あれの心は永遠に私のもの。未来永劫、私にとらわれたままでいればいい。――ほかの人間に心を移すなどあってはならぬっ」


 鋭い爪先が香蘭の首筋に食い込む。


 痛みに眉をひそめつつ、香蘭は反撃を投げかける。


「もう無理ですよ。陛下はそれはそれは、私にご執心ですから。あなたのことなんて忘れかけています」


(さぁ、コレが一番こたえるでしょう。どんどん苦しんでくださいませ)


 愛を恐れる焔幽は、ある意味でずっと彼女にとらわれ続けていたのだ。その事実は彼女にとって極上に甘美だったのだろう。焔幽が檻から出ようとするのが悔しくてたまらないのだ。


「諦めましょう。もう彼を縛ることはできません」


 香蘭はその言葉を目の前の幽鬼と、どこかで見ているであろう‶彼女〟に向けて言った。


「う、あ、ぐあぁぁぁ」


 奇妙な叫び声をあげて、幽鬼は香蘭に襲いかかる。


 彼女の顔はドロドロと崩れ、ますます異形の化物に近づいている。香蘭の意識が遠のいていく。生気を吸い取られているのか、物理的に首を絞められているのか、もはや判断がつかない。


 これ以上は無理とどうにか声をあげようとしたところで、なにかがシュッと飛び出してきた。


「香蘭!」


 焔幽だった。彼は香蘭を強引に幽鬼から引きはがし、自分の背にかくまった。


 幽鬼と焔幽が対峙する。焔幽の全身からぶわりと蒼い焔が立ちのぼる。すべてを焼き尽くすかのようなエネルギーがその場を支配していた。


(焔幽。最初は似合わぬ名だと思っていましたが、ぴったりでしたね)


 氷のような男は見せかけ。彼はたしかにその身に猛々しい焔を秘めていたのだ。


「俺を痛めつけるのは構わぬ。好きにしろ、琵加」


 焔幽の焔がまたその勢いを増した。まるで結界でも張ったかのように幽鬼がこちらに近づけなくなる。


(皇帝が持つという朱雀の加護、ハッタリではなかったのですね)


 それとも、焔幽に振られたダメージで幽鬼が動けなくなっているだけだろうか。


「だが、香蘭に手を出すなら地獄へ送る」


(これはまた、ききそうなひと言を)


ダメージを受けたのは幽鬼だけではない、彼女もだ。


「……どうして……兄さま……」


 月明かりの薄闇に、か細い声が響いた。香蘭は即座に叫んだ。


「夏飛さん! 今です、出番です!」


 香蘭とて命は惜しい。夏飛に助っ人は頼んであったのだ。幽鬼を操る真犯人が現れたら、とらえるようにと指示をしたうえで。


 香蘭はおとりだ、幽鬼と真犯人の意識を引きつけるための。

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