七 彼を巡る愛憎③
幽鬼は現れないまま、また数日が過ぎた。すっかり秋も深まってきており、頬を撫でる風はひんやりと冷たい。
(あんまり寒くなると幽鬼も出てこなくなってしまうのでしょうか)
そんな香蘭のもとに夏飛が訪ねてきた。
「頼まれていた件、調べがつきましたよ。たしかに女官たちの間で流行していますね」
明琳が女官たちへの土産にしたという腕輪、やはりどうにも引っかかり彼に調査を依頼していたのだ。
いつ、どうやって千華宮で流行り出したのか。きっかけを作ったのは明琳なのか。
「かわいらしい雰囲気に手頃な値段。人気が出るのもわかりますし、なにがそんなに気になるんですか?」
香蘭は遠くを見るように目を細めた。
「あれの起源は呪具なのです」
「呪具?」
聞き慣れない言葉だったのか、夏飛はオウム返しにつぶやく。
「そう。妖術師が呪いに使う道具のこと」
『まじない』と『呪い』は本質的には同じ。願いが叶うというかわいらしいまじないの腕輪は、もともと呪いに使われるものだった。
(呪具の場合、ガラス玉ではなく半貴石を使うことが多かったと聞きますが)
その石に妖術師の呪いを閉じ込める。すると身につけた人間に呪いが発動するという仕組みだ。なので本来は贈られたくない代物だったはず。
けれど、いつしか悪意が抜け、呪いがかわいらしいまじないにかえられ、ただの装身具として定着したのだろう。蘭朱の生きていた時代にはすでにそうなっていて、高価な半貴石ではなくガラス玉。貴族よりは庶民の間で流行していた印象だ。
(考えすぎかもしれないですが、妖術師の存在を疑うタイミングであれが千華宮で流行り出す。となると、気になってしまいますよね)
「へぇ、それは初耳でした」
「それで、あの腕輪はどこの宮に出入りする商人が持ってきたのでしょう? それはいつ?」
後宮は宦官以外の男は立ち入れない。が、女の出入りは案外と多い。もちろん許可証は必要だが、王族が代々贔屓にしている商人、芸人、それぞれの妃嬪たちが実家時代から懇意にしている女たちも商売にやってくる。
あの腕輪を最初に千華宮に持ち込んだ人間は誰なのだろう。そして、それは幽鬼騒動の前か後か。
「明琳さまが手にしたのはいつですか? 最初の被害者が出るより前?」
「いいえ、後ですね。明琳さまが手に入れたのはつい最近のことのようです」
となると、幽鬼騒動と明琳は無関係ということになるだろうか。
夏飛が詳しい話を続ける。
「明琳さまより先に李蝶公主がつけていたそうですよ」
「李蝶さま?」
「えぇ、千華宮のあの品を持ってきたのは、公主さま方のお抱え商人です。衣装や簪などを扱っているようで、普段から付き合いもあり怪しい人物ではなさそうでしたが」
「公主さま方の……」
「はい。最初に公主さまの間で流行し、それが妃嬪たちの耳に入り、件の商人は妃嬪たちの宮にも売りに行き、ひと儲けしたようですね」
「公主さまたちが腕輪を手に入れたのは事件より……」
香蘭の言葉を夏飛が引き継ぐ。
「前です」
霧のなかだった事件の全容が少しずつ見えてくる。
(もしかすると、幽鬼の狙いは陛下ではないかも)
「そうそう、陛下が『たまには顔を出せ』とご立腹でしたよ」
「有能だと、あちこちで頼りにされてしまって困りますねぇ」
口ではそう言いつつも、彼のことは少し気がかりだった。倒れたあとも平然と仕事をこなしているようだが……。
(トラウマともいえる女の幽鬼。忘れたふりはできても、本当に忘れられるはずはないでしょうから)
彼女の気配が常にまとわりつき、気が休まる瞬間などないだろう。
「では、ごあいさつだけ」
香蘭は夏飛と一緒に朱雀宮に向かうことにした。
「まぁ。香……じゃなかった、蘭楊!」
途中、そんなふうに声をかけられ香蘭は足を止める。自分の正体を香蘭と知るのは、隣にいる夏飛、そして命じた焔幽以外にはひとりだけ。
「雪寧さま! ご無沙汰しております」
応える雪寧の笑顔はどこか硬い。
(なにかあったのでしょうか。雪寧さまの笑みは、いつも可憐な一輪の花のようですのに)
香蘭は彼女の周囲をキョロキョロと見回す。
「おひとりですか」
あまり権力がないとはいえ雪寧は公主だ。供もなしにひとりきりとは珍しい。
「えぇ。このところ寝不足で……疲れてしまったから少しだけ気分転換」
気持ちはよくわかる。心を許した女官や護衛であっても常に誰かの目があるのは疲れるものだ。高貴な人間だって、ひとりになりたいときもある。それは構わないが、寝不足は心配だ。
「大丈夫でしょうか。このところ幽鬼が出るなど、夜はなにかと騒がしいですからね」
香蘭は気遣うように彼女の顔をのぞく。たしかに、顔色があまりよくないし少し痩せたようだ。もともと大きな目がさらに強調された印象になっている。
「えぇ。いつか雪紗宮にも来るのではと不安で……」
雪寧は手を伸ばし、香蘭の腕をつかんだ。グッと想像していた以上に強い力をかけられ、香蘭は少し驚いた。
「雪寧さま?」
「香蘭。早く、早く雪紗宮に帰ってきて」
雪寧は必死に訴える。香蘭を見つめる瞳にはなにか切羽詰まったものがあった。
「〝蘭楊〟は期間限定のはずよ。早く、私の女官〝香蘭〟に戻って。あなたがいれば安心だもの」
よほど幽鬼におびえているのだろうか。
彼女は香蘭の二の腕をつかむ手にますます力を込める。やや痛いほどだったので、香蘭はふと視線を向ける。
か細い手首にあれが巻かれている。赤、桃、白の糸を使った鮮やかな組紐、そして中央に飾りの玉。
(雪寧さまも、よく似合っていますね)
香蘭は目を伏せ、しばし考えた。
「申し訳ございません、雪寧さま。それには少し時間がかかるかと思います」
「えぇ、どうして? 皇后は明琳さま以外にいないと誰もが口をそろえるし、三貴人だってそう悩むほどではないのでしょう」
有力な候補者は五名。対して席は四つしかない。落とす人物を選ぶという難しさもあるし、そもそも明琳を皇后に推薦すべきかどうかも香蘭はまだ決めかねていた。
だが、そんな内情を雪寧に話す必要はないだろう。
「妃嬪選びが終われば、あなたは雪紗宮に戻ってくる約束だわ」
「はい。そのとおりなのですが、陛下は私に、妃嬪選びが終わっても残れとおっしゃっていますので」
近くにいた夏飛がけげんそうに目を瞬くのが見えた。が、香蘭はそれには気づかぬふりを決め込む。
「今も、陛下にど呼ばれて朱雀宮に行くところなんです。ですのでそろそろ、失礼いたします」
丁寧におじぎをし、朱雀宮へと歩を進める。
「陛下がいつ、そんなことをおっしゃったのですか?」
歩きながら夏飛が問う。聞いていないぞと言いたげな顔だ。
「夏飛さん。準備をしましょう。おそらく今夜、幽鬼が出ます」
香蘭の返事に彼はゴクリと喉を鳴らした。




