七 彼を巡る愛憎①
クライマックスです。完結まであと少し。
七 彼を巡る愛憎
悪夢を見ていた。暗く寒い場所に、あの女とふたりきり。
愛されているのではなく虐げられている。頭の片隅では冷静に理解しながらも、必死に否定するしかなかった。認めてしまったら気がおかしくなるから。
自分は目の前の女に愛されている、そう思い込むことでどうにか日々を生きながらえた。
今日も女の白い手が、ゾッとするほどにしなやかで美しい指が、伸びてくる。
――う、うわあぁぁ。
ありったけの力で叫んだつもりだったが、声にはなっていない。焔幽は口をパクパクさせて、焦点の定まらぬ瞳で白い天井を見た。
「陛下」
聞こえてきた声に一瞬ビクリとしたが、すぐにあの女ではないと悟る。
視界にニュッと入り込んできた人物を認めて焔幽は安堵のため息をこぼした。
モグラによく似たその顔は焔幽に恐怖を与えない。彼女との時間はいつも明るく心地がよかった。
「香蘭か」
喉が渇いているせいか、声がひどくかすれている。
「よかった、お気づきになられたのですね」
いつも余裕綽々な彼女もさすがに焦ったのだろう。全身から脱力するようにほぅと息を吐いた。
「なにか欲しいものは?」
「あぁ、水を」
落ち着いて周囲を確認すれば、そこは見慣れた自分の室だった。
「お待ちくださいませ」
水差しから彼女がトクトクと水を注ぐ。香蘭に背中を支えてもらいながら焔幽は上半身を起こし、水を飲み干した。冷たさが身体に染み渡ると同時に、すうっと悪夢が遠ざかっていった。
「すまない、迷惑をかけたようだな」
四人目の被害者の話を聞き、自分はそのまま倒れたのだろう。焔幽はようやく状況を察した。
「夏飛は?」
自分をここまで運んでくれたのであろう彼がいない。
「陛下がお倒れになったことを表にお伝えに」
表とは政の場である宮中のこと、裏は陛下が私的な時間を過ごす後宮のことだ。
「そうか。香蘭、お前もすぐにこの室を出よ。そしてしばらく俺には近づくな。夏飛にもそう伝えてくれ」
焔幽は香蘭の目を見て、はっきりと告げた。彼女は焔幽に負けない強い眼差しを返してくる。
「二度と口にするまいと思っていたのですが……」
苦しそうに逡巡してから、彼女は言う。
「幽鬼の正体は陛下を虐待していた琵加という女、ですね」
情けない話だが、その名を聞くだけでもいまだに身の毛がよだつ心地がする。
「あぁ。彼女はかすかに異国の血を引いているとかで赤茶っぽい、不思議な瞳の色をしていた。夜になるととくに赤さが際立つんだ。まるで、紅玉のように」
赤い瞳はおそらく幽鬼だからではない、生前の彼女の姿をそのまま残しているだけだ。緩く波打つ長い髪も彼女の特徴のひとつだった。
あの女から与えられたものを愛とは呼ぶな。香蘭はそう言った。なので焔幽はやや言葉に迷った。
「彼女は異常なまでに俺に……執着していた。幽鬼になったところで、それが変わるとは思えない。あの女が最後に狙うのは俺だろう」
宦官たちは自分の代わりに犠牲になったのかもしれないと思うと申し訳ない気持ちになる。これ以上、被害者は増やしたくない。
(とくに香蘭。お前だけは――)
祈るような思いだった。自分がこんなにもなにかを大切に思えるとは、初めて知った。
彼女はなにか思案するようにじっとこちらを見つめている。それから、ふいに両手を伸ばして焔幽の肩に置いた。
「なんだ?」
「今はきっと、こうすべきときですね」
焔幽の身体はふわりと温かいものに包まれた。香蘭に抱き締められているのだ。
「女とは思えぬ逞しい背中だな」
憎まれ口を叩きながらも、どうしてか泣きたくなった。かすかに震える手で焔幽は彼女の背に触れる。信じられないほど温かい。
(やっとわかったような気がする。人はこのぬくもりを愛と呼ぶのだな)
香蘭は力強く宣言した。
「大丈夫です。あなたのことは私が全力で守って差しあげますから」
肩透かしを食らった気分で焔幽は苦笑いをする。
「その台詞は今、俺が言おうとしていた。奪うな」
「早いもの勝ちですよ」
香蘭の笑顔は鮮やかで、神々しいほどに美しかった。
認めるしかない、彼女はたしかに絶世の美女なのだ。たとえ宦官の格好をしていても、どんなにモグラに似ていても。
(千年寵姫、貴蘭朱も案外と外見が美女だったわけではないのかもな)
蘭朱が聞いたら怒り狂いそうなことを焔幽はぼんやりと思った。そうして、ひとつの決意を固めた。
「香蘭。幽鬼騒動が落ち着いたら、お前に大事な話が――」
彼女の人さし指が焔幽の唇を柔らかく押して、言葉を止める。
「おやめください、陛下。そういう発言はよろしくない結末を引き寄せます」
ふわりと蠱惑的に彼女は笑った。




