一 千年寵姫、モグラに生まれ変わる③
「雪寧さま。香蘭でございますよ」
彼女の室の扉を開けて、香蘭は顔をのぞかせる。
「あぁ、香蘭! 髪をお願いできるかしら」
おろしたままの柔らかな栗色の髪をなびかせて、彼女がこちらを振り向く。くりくりと大きな目、桃のような頬、ツンととがった小さな唇。公主雪寧は、誰もが思わず笑顔になってしまうような愛らしい姫だった。
年は十四。近頃、ようやく女らしさに目覚めた様子で髪や衣にやけにこだわっている。ほほ笑ましい光景だ。
「もちろんでございます。どのように?」
「えっとね、翡翠妃さまのようにしたいの。大人っぽくて綺麗でしょう」
キラキラした瞳からは翡翠妃への純粋な憧れがあふれていて、香蘭の心を温かくしてくれる。
(どうか、雪寧さまの美しい心がこのまま変わることのありませんように)
香蘭は願った。
羨望が恨みに変わる瞬間、清らかな瞳も嫉妬の炎に焼かれれば醜くにごる。
死人のような虚無の瞳――。
かつて幾度も見てきたからこそ、願わずにはいられなかった。
「翡翠妃さまの高く結いあげる髪型、私もあんなふうにしたいわ」
「承知しました」
翡翠妃――陽明琳の立ち姿を香蘭は思い浮かべる。
皇后の座にもっとも近いとされる彼女は、欠点のない完璧な女性だった。才色兼備という単語はきっと彼女のために存在している。顔立ちは知的で涼やか。手足はほっそりとしなやかなのに胸元は豊かで、宦官でさえ欲情を覚える肉体と評されている。
(まぁ、宦官に男の欲がないというのは建前ですけどね)
ナニはなくとも欲は残るものらしい。宦官の色恋沙汰というのは歴史上にもさまざまな逸話が残っている。妃嬪との純愛、悲恋、変わり種では宦官同士の痴情のもつれから殺人に発展したようなものまで……。蘭珠の時代にもそういう話はいくらでもあった。
後宮の女はみな皇帝のもの。これもまた建前であって、お手つきの女でなければ宦官との逢瀬くらいは見逃してやるという寛大な皇帝も案外いる。
(あの人も、気に入った臣下には気前よく妃嬪を下賜していましたねぇ)
香蘭は前世の夫を懐かしく思い出した。
雪寧の前には大きな鏡が置かれており、そこに彼女と彼女の美しい髪を梳く香蘭の姿が映っている。
「あんなふうにできる? 私の髪では長さが少し足りないかしら」
鏡のなかの香蘭に、雪寧は話しかける。
「そうですね。長さというより」
多くの女性が勘違いしていることだが、この世には素敵な髪型、素敵な衣装などというものは存在しない。似合う髪型、似合う衣装があるだけなのだ。万人にとって素晴らしいものなどありえない。
(殿方も同じね。大切なのは相性であって、どんな女性にとっても理想的な夫なんて幻想です)
そこまで考えてから香蘭は、あら?と首をかしげる。
(でも、私は全世界の殿方にとって理想の女性ですよね? 困ったわ、私の知性と経験から導き出された完璧な理論が私の存在によって論破されてしまいました。世の理さえも超越してしまう魔性。あぁ、罪深いですわ)
自己陶酔して悶える香蘭を見て、雪寧はがっかりした顔になる。
「香蘭? そんな苦しそうな顔をして……やっぱり私じゃ翡翠妃のようにはなれないってことかしら」
香蘭はハッと我に返ると、慌てて首を左右に振る。
「いえいえ。大人っぽく綺麗な髪型ですよね? もちろん大丈夫でございます」
鏡のなかの雪寧を見据え、香蘭は続ける。
「ですが、翡翠妃さまと雪寧さまはお顔の形や髪質が異なります。まったく同じでは雪寧さまにはしっくりこないと思いますので……少し工夫をさせてもらってよろしいでしょうか?」
陽明琳はいわゆるうりざね顔である。対する雪寧は丸顔。似合う髪型も当然変わってくる。
「雪寧さまは頭頂部に量感出す髪型がお似合いです。翡翠妃はよく耳の下に花飾りをつけていらっしゃいますが、雪寧さまの場合はそれを……」
香蘭が丁寧に説明すると、彼女は満足そうにうなずいた。
「香蘭に任せるわ。髪型もお化粧も衣装もあなたに任せると、いつもみんなに褒められるもの」
「まぁ。ありがたきお言葉、恐縮です。けれど、すべて雪寧さまの愛らしさがあればこそですよ」
にこやかに答えつつも、香蘭の胸にかすかな不安が寄せる。
(雪寧さまは美しく愛らしい。これ以上目立ちすぎると、姉公主さま方のご不興を買ってしまうやも)
権力のある美女には誰も逆らわないが、力のない美女はとかくいじめられやすいもの。女社会をうまく渡っていくには、一国の君主に匹敵する深謀遠慮が必要なのだ。
(雪寧さまがいかにお姉さま方に憧れているか、そんなうわさ話でも流しておきましょう)
近頃の雪寧の羨望は翡翠妃に向いているようだが、そこはあれ。嘘も方便というやつだ。
「はい、完成です。お綺麗でございますよ」
「うふふ。ありがとう」
いつもよりグッと大人びた表情で雪寧は香蘭に礼を言った。そして、鏡台の引き出しからなにかを取り出して、香蘭に見せた。
「これ、今日の髪型に似合うかしら」
彼女の手のなかにあるのは金細工の簪かんざしだった。繊細な彫りがほどこされた上等な品だ。
「まぁ、素敵ですね」
「先日、陛下にお会いした際にいただいたのです。つけてみてくれる?」
彼女の顔に照れと誇らしさが同時に浮かぶ。兄である皇帝をよほど慕っているのだろう。
「もちろんです」
香蘭は簪を受け取り彼女の髪にさす。清楚な雪寧にぴったりだった。
(新しい陛下は贈りものの趣味はいいようですね)
新皇帝と雪寧は腹違いの兄妹に当たる。焔幽は冷酷な人間ともっぱらのうわさだが、母を失い孤独な雪寧のことは気にかけている様子だ。この宮にもときおり顔を出している。
雪寧はうれしそうにほほ笑む。
「実はね、今日もお越しいただけることになっているの。この髪、香蘭に整えてもらったって陛下に自慢するわね」
「いえいえ。私の名前など、陛下のお耳汚しになるだけですわ」
(下手に名を覚えられてしまっては困りますわ!)
かなり本気で、香蘭は雪寧を止めた。