五 同じ闇を③
それから数日。
例の皇子との会談を終えた彼が表の行政区から戻ってきた。藍の衣に装身具は最低限。銀の耳飾りと帯を彩る組紐だけ。その潔さが彼の孤高な気品をより高めていた。
(我ながらいい仕事をしましたわ)
隣国の皇子もきっと、瑞国皇帝の威厳を感じ取ってくれたことであろう。
「待たせたな」
「いえ」
香蘭の宦官姿もすっかり板についている。
(自分が女であることをもはや忘れてしまいそうでねぇ)
「いいかげん、どなたか妃嬪のもとにお渡りになられてはどうですか?」
男の格好をしていると心も男に近づくのだろうか。据え膳を食わない彼を歯がゆく思い、香蘭はまるで秀由のような小言を彼に投げた。だが千華宮に勤める人間なら誰もが胸に抱いている不満だろう。
皇帝が誰のもとにも通わないなど、後宮の存在意義が揺らぐではないか。
「男と女の相性は、頭で考えるだけではわからぬ点もあるかと思いますよ」
香蘭や秀由の妃嬪調査の結果、彼はそれだけで皇后と三貴人を決めようとしているのだ。
(情欲に溺れるのは暗君のすることですが、これはこれで別の意味で危うい気も……)
焔幽はまったく悪びれず、けろりと返す。
「言っただろう。おれは近頃、百八十度趣味が変わったのだ。妃嬪たちは美女ばかりで興味が湧かぬ」
そして誘惑するような眼差しを香蘭に送ってよこす。瑠璃妃、桃花がこの場を見たら「もう死んでもいいですわ!」と感涙することだろう。
(近頃の陛下はかわいげがなくなりましたね)
少し前までは香蘭が一方的にからかうばかりだったのに、このところは思わぬ反撃を受けることも多い。香蘭としてはおもしろくない。
「あら、朱雀宮へお帰りではないのですか?」
彼の足が別方向に進むのを見て尋ねた。妃嬪の誰かを訪ねる気になったのだろうか。
「あぁ、李蝶の宮へ寄る」
「李蝶さま、ですか」
彼女は公主、つまり焔幽の妹のひとりだ。訪ねる先が妃嬪ではなかったことで香蘭の声ががっかりと気落ちしたものなる。
それを察したのか、数歩先を歩く彼がぴたりと止まりこちらを振り返った。
「香蘭。近頃、お前は変わったな。自覚はあるか?」
意味ありげな瞳で彼がニヤリした。
「なにが言いたいのです?」
なぜだか分の悪さを感じ、香蘭は半歩、後ずさる。
「俺はお前に興味がある。無粋だろうがなんだろうが、この手で隅々まで暴いてやりたいと思うほどに」
そこで彼はクスッと自嘲するように笑う。
「焦がれていると言い換えてもいいかもな」
「理論が飛躍しすぎかと思いますが」
言いながら、香蘭は据わりの悪さを感じた。どうにも落ち着かない。
(台詞がいつもと逆ですね……)
私に焦がれているんですね、この類の台詞は香蘭が発するべきなのだ。焔幽自身に認められてしまっては、どう返していいのかわからなくなってしまう。
演劇の筋書きを勝手に変えられた気分だ。舞台上で勝手な振る舞いを始めた焔幽を恨みがましい気持ちで見あげる。
だが、彼は香蘭がそういう顔をするのも楽しくてたまらない様子だ。
「ほら。以前なら『まぁ、やっと自覚されたのですね』とでほほ笑んでいたところだろう」
香蘭はグッと言葉に詰まる。
(たしかに。そう返すべきでしたわ)
心のなかではがっくりと膝をつく。が、実際にそれをするのは香蘭の自尊心が許さない。彼女の精神年齢は蘭朱の三十歳に加えて香蘭の十八歳で四十八歳だ。
二十年やそこらしか生きていない青年に翻弄されたなど、とても認められない。
ツンと斜め上を向き、言った。
「いつも申しあげておりますでしょう。私に惚れるのは仕方のないことですが、陛下自身のためにならないと。手の届かぬ女神である私のことは諦め、現実の女性に目をお向けになってください」
余裕の表情をしている焔幽とは対照的に香蘭はいやに早口になる。
「桃花さまか柳花さまのところにでも行かれてみてはどうでしょう? 月見の宴のあとのおふたりの仲も気になるところですし」
もっともふたりが変わらずに仲良しであることは調査済みではあるが。
焔幽はツカツカと近づいてきて、香蘭の目の前で止まる。長い指がクイと香蘭の顎を持ちあげた。
「らしくないぞ、香蘭。お前は俺の感情にも行動にもいっさい興味がなかったじゃないか。そんなものは任務外、と考えていたはずだろう?」
女の秘密は暴くな。そう忠告したのに、彼は香蘭の内側にズカズカと踏み込んでくる気のようだ。
「ほかの女をすすめてくるのは、俺がお前に本気になるのが怖いから。違うか?」
(この人に愛されるのが怖い? そんなことは……)
焔幽が想定外の速度と強さで攻めてくるので、香蘭の防御は一歩遅れる。無防備な顔をさらしてしまった。
焔幽の瞳が甘く弧を描く。
「ははっ。初めて、お前をかわいいと思ったぞ」
そこで、ふと気がついたように焔幽は言い直す。
「違うな、女をかわいいと思ったこと自体が初めてだ」
焔幽はあくまでも期間限定の主。深入りする気などなかったし……だから先日の額飾りの件は見なかったことにした。
けれど、彼がその気ならばと香蘭は彼を見返した。頭の片隅で、まんまと彼の挑発にのってしまったことを後悔しながら。
「あなたが私に恋をする? それはありえないでしょう」
「なぜ断言できるのだ?」
「……陛下は公主さま方をとても大切になさっていますよね」
唐突に話題を変えた。焔幽はそう思ったかもしれないが、香蘭のなかでは同じ話題が続いている。そのつもりだ。
彼は若干困惑しつつも、とくに突っ込むことはせずに答えてくれた。
「まぁ、腹違いとはいえ血を分けた妹だしな」
彼に同母の妹はいない。みな腹違いだ。けれど、焔幽は彼女たちを大切にしている。性格におおいに難のある春麗に対してすら相応の気遣いは見せている。
妃嬪候補たちへの塩対応とは大違いだ。
どうして自分は、こんなにも真剣に焔幽という男のことを考えているのだろうか。それがどうにも滑稽で、ふいに笑い出したくなった。
彼の言うとおり香蘭……いや、蘭朱らしくない。
(私は、香蘭としての生を歩みはじめているのかもしれないですね)
魂と肉体、人間を定義づけるのはどちらだろう。なんだか哲学的だ。
「陛下は女嫌いではないですよね。あなたが厭うのは……男女の愛」
香蘭の言葉は鋭利な刃物のように焔幽を突き刺す。




