一 千年寵姫、モグラに生まれ変わる②
雪紗宮。皇帝の私的空間である朱雀宮を中心として放射線状に並ぶ宮たちの南側、そこに十四歳になったばかりの公主雪寧の宮がある。
例のごとく、公主付きというのは女官にとって当たりでも外れでもない微妙な立ち位置なのだが……この雪紗宮はありていにいえばやや外れ寄りといったところだろうか。
現在の千華宮には嫁入り前の公主が四名いるが、一番立場が弱いのが末姫である雪寧だった。実母はあまり身分が高くなかったうえに早世しており、雪寧には後ろ盾がない。後宮は弱肉強食の戦場なので、力がない者はますます食われるばかりなのだ。
ただ、ここが〝外れ〟なのは出世を目指す者にとっての話。香蘭には楽園のような職場である。雪寧は愛らしく心根の優しい娘で、同僚たちものんびりした気のいい人間が多い。ドロドロした妬み、嫉み、血みどろの足の引っ張り合い、そんな後宮らしさとは無縁の日々が送れる。
小さな庭を彩るのは野に咲く花々、建物はややガタがきているところもあるが風雨をしのぐにはなんの問題もない。素朴で温かな宮のなかで、女官たちは繕い仕事の合間におしゃべりに興じる。
「私たちは大軍同士のぶつかり合う戦場を、物見やぐらから眺めているようなものね」
「そうそう、安全な場所からやいのやいの言っていられるんだもの。恵まれた立場だわ」
決して負け惜しみではなく、本心からそう思っている人間ばかりがここには集まっている。彼女たちの言うとおり、現在の千華宮は大乱を前にした異様な緊張感に包まれている。
「新皇帝陛下の戴冠にともなう一連の儀式はすべて終わった。となれば次は……」
「そう、アレよ!」
陛下の寵を競い、宦官を味方に取り込み、ライバルに毒を送る。そんなあれやこれやで忙しい有力妃嬪たちとは違い、下級女官の生活なんて変化に乏しいもの。久しぶりの娯楽を前にして彼女たちの鼻息は荒い。香蘭の隣にいた詩清がアレの名を口にする。
「三貴人選出、ですね」
うおぉ~という謎の歓声があがる。
東大陸の中央部に大きな領土を持つ瑞の国。頂に立つ皇帝陛下は朱雀の化身であり、茶々連峰で暮らす数多の神仙を統べる存在とされている。
その瑞国皇帝陛下はつい半年ほど前に代替わりをしたばかりだ。彼のほかに九人いた皇子たちを出し抜き、玉座に座った新皇帝の名は焔幽という。
まだ二十三歳、焔の字を持つその名に似つかわしくない冷えびえとした男だ。血の気の薄い白い肌、真冬の凍った湖を思わせる蒼い瞳、冷酷さがにじむ薄い唇。
(悪役顔!って感じでしたわね。まぁ、ものすごく遠目にしか拝見していませんけど)
香蘭の立場では、彼が目の前に来たら床に額をこすりつけなければならない。間近にその顔を眺める機会は生涯訪れないだろう。
(そのほうがありがたいですわ。うっかり惚れられてしまったら大変です)
香蘭がいつものように自惚れている間にも女官たちの楽しげな会話は続いている。
「すぐに皇后が決まるかしらね?」
「う~ん。新陛下はあまり女人に興味がないとも聞くし、まずは三貴人だけじゃないの」
千華宮の妃嬪たちには明確な序列がある。頂点はもちろん国母である皇太后、次に皇帝の正妃である皇后。
その下に三貴人の位がある。名称のとおり三名しかその椅子に座ることはできず、上から順に蒼貴人、緋貴人、黄貴人と呼ばれ、皇后と同程度の豪華な宮を賜ることができる。
「誰が選ばれるかしら?」
焔幽は皇子時代に決まった妃を持っていなかった。かなり珍しいことではあるが、彼も雪寧と同様に実母の身分が低く、まさか皇帝になるとは……焔幽本人以外は誰も予想もしていなかったのでうるさく言われなかったのであろう。
(女嫌いで恋人は宦官のみ、なんてうわさも聞きますね)
そんな事情もあって彼の妃嬪選びは即位後に一から始まることになった。皇后も三貴人もまだ空位だ。
「確実なのは翡翠妃さまだけでしょうね。あとは未知数だわ」
「うん、うん」
ドロドロした女の争いは、巻き込まれさえしなければ楽しいものだ。女官たちは思い思いの予想を語り、しまいには三時のおやつを賭けると言い出す者まで現れ、場はおおいに盛りあがる。
「香蘭は? 誰に賭ける?」
話を振られ、香蘭は顎にこぶしを添え考えた。
三貴人の下の位は妃。人数制限はなく、名家の生まれや陛下のお気に入りがその座につく。
宝石の名を拝借し『翡翠妃』などと呼ばれるのが慣例だが、これは比較的新しい流行だ。
伝説の千年寵姫蘭珠が『蒼玉妃』とあだ名されたことにあやかって、後世の妃嬪たちがこぞって自らに宝石の名をつけたのだ。それがいつしか慣例になった。
(光栄ではありますが、縁起かつぎで寵を勝ち取るというのは難しいことでしょうね)
ちなみに妃の下に宮をもらえない嬪、女官、下働きと続くが、この辺りはもう皇帝にとっては〝その他大勢の女たち〟という認識でしかない。
「そうですね。三貴人にふさわしそうな方は何人かいらっしゃると思います」
香蘭は静かに口を開いた。皇后と三貴人は空位だが、宝石の名を持つ妃は何人も後宮入りしている。皇帝自身にお気に入りはいないので、有力貴族たちの推薦で集められた女性たちだ。
先ほど名のあがった翡翠妃は名門陽家の娘。血筋だけでなく、容姿・教養も優れている。彼女などは間違いなく三貴人には選ばれることだろう。
「けれど、皇后となると……」
(困りました。千華宮広しといえども、この私以外には見当たりません。でも私は皇后になってさしあげる予定はありませんし)
「難航しそうな気がします」
「いつもながら、謎に上から目線ね。モグラのくせに」
詩清がつっこみ、みんなが笑う。
「でも、香蘭は本当に優秀な女官よね。力持ちで畑仕事も大工仕事もなんでもできちゃうし」
女官たちは千華宮の序列の下層にいるが、一歩宮の外に出ればそれなりのおうちのお嬢さんだ。たいていの場合、中流貴族の娘が花嫁修業として送り込まれてくるものだから。皇帝のお手つきにならなれなければ、千華宮を出て嫁に行くことも許されている。
そう、彼女たちは修業に来ている。つまり、来た時点ではなにもできない世間知らずのお嬢さんであることが多い。畑仕事などさっぱりだ。
「私の生家は田舎で、外仕事には慣れていますから」
雪寧の宮はあまり予算を割いてもらえないので、下働きの数が少ない。本来は下働きの者がやるような仕事も器用にこなす香蘭は重宝された。
「そうそう。最初は女官より下働きのほうが向いてるんじゃない?と思ったりもしたわよね」
ある女官が言えば、詩清も大きくうなずく。
「うん。可憐で上品な雪寧さまの女官にはふさわしくないと思ったけど。まさかお気に入りになっちゃうなんてね」
詩清の言葉にかぶせるように「香蘭! 香蘭はどこ?」と鈴を転がすような声が届いた。
「あら、うわさをすればね。香蘭、雪寧さまがお呼びだわ」
香蘭はスッと立ちあがり、声のしたほうへと歩を進める。
「はーい。香蘭はここでございます。すぐに参ります」
のっそりとした香蘭の後ろ姿を眺めながら、詩清たちは顔を見合わせる。
「不思議な子よね」
「うん。田舎貴族で決して雅とはいえない容貌なのに」
「あの知識と教養はどこで磨いたのかしら」
「雪寧さまご本人には言えないけれど、香蘭はこの宮にはもったいない気がしちゃうわ」
「そうね。翡翠妃さまにお仕えすることもできるかも」
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