四 月と太陽⑦
「長くなりそうでしたらお茶を淹れます」
焔幽は返事をしなかったので、肯定の意だろうと判断して茶を用意した。ふたりそろってズズッとすすったところで、彼が話し出す。
「いくつか、聞きたいことがある」
「なんなりと」
「まずお前、初めのほうに芸を披露したなんとかっていう女に、こっそりと舞の振りを教えたそうだな」
意外なところを攻められて、香蘭は瞳をパチクリさせる。
「ど、どこからその情報を?」
「宴が始まる頃にその女がお前に礼を言いたいと捜していたのを見たんでな。夏飛に理由を調べさせた」
そういえば、とりを飾った明琳の演奏が終わったあとで例の女性がわざわざ自分のところにやってきたなと思い出す。隣にいた夏飛は気にも留めていないような顔をしていたが、しっかりと聞いていたらしい。
香蘭はやや申し訳なさそうにモゴモゴと言い訳する。
「贔屓はいけないとわかってはいたんですけど。彼女が泣き出しそうだったので、つい……」
焔幽は公正であることを好む。香蘭が勝手にひとりだけを助けたことが気に食わないのだろうと想像したが、どうやら違うようだ。
「そのくらいは別に構わん。そもそも俺自身は妃嬪に芸事の才など求めてはいない」
月麗が聞いたら卒倒しそうな発言を彼はけろりと吐く。
「では、なにがご不満なのでしょう?」
香蘭になにかを問いただしたい、彼はそういう顔をしている。
「彼女の舞、あれはわりと珍しいものだそうだな。彼女の出身地方に伝わる伝統的なものだそうだ」
「へぇ、そうなのですね!」
それは知らなかった。焔幽はますますいぶかしげな目になる。
「お前と同郷なのかと思ったが、それは違った。今の反応を見るに、お前はそもそもあの舞を今日初めて見たのだな」
香蘭は素直にうなずく。彼がどこに引っかかっているのか、よくわからない。
「では、なぜ振りつけを教えることができた?」
「あぁ、そんなこと! 舞の振りには規則性がありますわ。右に一回、左に一回。であれば次は右に二回。そう決まっています」
実際の舞の振りつけはもう少し複雑だったが、十分に次の動きが予想できるものだった。
焔幽はふぅと細い息を吐く。そして香蘭から目をそらし天井を仰ぐ。
「この前、夏飛が言っていた。お前は得体が知れないとな」
静かな声で彼は続ける。
「俺も同感だ。自惚れ屋なのは構わぬ、優秀なのは大歓迎。だが、どうしてそうなったのか。お前は過去が見えない」
香蘭は反論せず黙って彼の言葉を聞く。
「舞を知らずとも振りつけは想像できる。その台詞が翡翠妃や琥珀妃から出てきたのなら、俺はなにも思わない。彼女たちの背景を考えて納得できるからだ。だが、香蘭」
名を呼ぶと同時に彼はじっとこちらを見据えた。焔幽の瞳の蒼い光がより強くきらめいた。まるで逃がさないとでも言うように。
「お前はさして名門でもない田舎貴族の娘だろう。少し調べたが、貴族とは名ばかりで生活は困窮している。お前の知識や教養は……いったいどうやって手に入れたものなのだ? 本当に胡家の娘なのか?」
香蘭はゆっくりと首を縦に振る。
「私は間違いなく、胡家に生まれた女ですよ。実はやんごとなき家柄の……なんて物語みたいな真実はございません」
なにひとつ嘘はついていないので香蘭の態度は堂々たるものだ。もっとも彼女は真っ赤な嘘をつくときもこれ以上ないほど堂々とつくのだが。
(陛下も夏飛さんも、さすがに私が前世の記憶を持っているという物語をこえた真実を抱えているとは思ってもいないようですね)
香蘭はスッと身を乗り出すと彼の顔をのぞく。そして蠱惑的な笑みを浮かべた。
「陛下。世の中には人々の想像のはるか上をいく天才が確かに存在するのですよ」
「貴蘭朱のような? お前もそうだと言いたいのか?」
「えぇ、そのとおりでございます」
「彼女は千年にひとりの逸材と謳われた。次の才媛の登場までは、あと九百三十年待たねばならないはずだが」
香蘭は口元に手を当て、貴蘭朱のように艶然とほほ笑んでみせた。
「千年にひとり。ぴったり、千年おきとはかぎらないのでしょう」
焔幽は額にかかるひと筋に髪をスッとかきあげた。ゾクリとするほど色っぽい仕草だ。
「わかるような、さっぱりわからないような理屈だな」
あまり納得はいっていない様子で唇をかんでいる。
「世の中には決して解明できない謎がある。これもまた揺るぎない真実ですわ」
「なるほど」
彼の視線がまっすぐに香蘭を射貫く。焔幽の長く美しい指が頬に触れた。どこまでも冷たい美貌を持つ男の手は存外に温かい。
至近距離で見つめ合う。流れる空気は口づけを交わす直前のようにトロリと甘く、それでいて暗殺者を前にしたときのヒリヒリした緊張感に満ちている。
「だが、俺はこの謎を解明するぞ。必ずだ。逃がしはしない」
「……私をつかまえられる男など、この世のどこにもいませんわ」
歌うように香蘭は言った。焔幽は眉根を寄せ、ククッと強気な笑みを見せる。
「上等だ」




