四 月と太陽⑤
何者かによる嫌がらせ。残念だが後宮とはそういう場所だ。衣装に細工する程度ならかわいいもので、歴史を紐解けば暗殺だの虐殺だの、もっと血なまぐさい話はいくらでも出てくる。
香蘭は焔幽を一瞥する。
「犯人捜しをされますか?」
女たちの諍いにどこまで首を突っ込むかは皇帝によってさまざまだ。ちなみに蘭朱の夫であった伯階帝は見て見ぬふりを徹底して貫いていた。
「瑠璃妃がそれを望むのなら」
焔幽は正論を返したが、そこで言葉を止め大きく肩を落とした。
「と思ったが、もう勝手に始めているようだな」
彼の視線は別の卓を見ている。有力妃嬪たちの集まる卓だ。焔幽が席を立ち、そちらに足を向けたので護衛役でもある夏飛と香蘭もそれにならった。
そこはもう修羅場の様相を呈していた。
琥珀妃、甘月麗が立ちあがり、甲高い声をあげている。
「どうして私が疑われなくちゃならないのよ?」
対峙しているのは桃花の妹である、景柳花だ。真面目で芯の強い彼女は、迫力満点の月麗に対して一歩も引いていない。
「疑っているわけではありません。事情を知らないかと聞いているだけです」
香蘭は近くにいた顔見知りの女官に話を聞く。
やはり、桃花の衣装に細工をした犯人捜しが始まっているようだった。桃花本人は不幸な事故と認識していたようだったが、妹の柳花はそうは思わなかった。香蘭たちと同じように誰かのいたずらを疑ったのだろう。
柳花が桃花の衣装を確認したところ、すぐには気づかぬような巧妙さでいくつかの糸が切られていたようだ。普通に着ているだけならまず問題はない。舞を踊れば破けるかどうかは五分五分……そんな状態だったらしい。
「まるで、桃花さまの運をためすかのようで、かえって質が悪いと柳花さまはお怒りでした」
女官は柳花の味方のようだ。柳花は正義感が強く、病弱な姉を守るのはいつも彼女の役目だ。今回も姉を傷つけられて黙ってはいられないと声をあげたらしい。
「姉が舞台袖で待機しているときに、次の順番であった月麗さまと月麗さまづきの女官たちは準備でいろいろと動いていたでしょう? そのときに、なにかおかしなことはなかったのかなと」
月麗が逆上しているだけで、柳花は別に月麗を犯人と決めつけているわけではない様子だ。順を追って確認するという正しい手続きを踏んでいる。
だが、月麗は苛立ちを隠さない。舌打ちせんばかりの勢いで吐き捨てた。
「知らないわよ、私はなにも」
(気持ちはわからなくもないですけどね)
香蘭は少しだけ彼女に同情した。彼女は芸事に長けている。この月見の宴は強すぎるライバルである明琳の上をいけるかもしれない、唯一の機会だったのだ。
ところが、結果的には明琳ではなくライバルとも思っていなかった桃花に負けた。月麗からすれば桃花に起きた困難はうらやましいくらいであろう。
歯ぎしりしたいほど悔しいところに、犯人疑惑をかけられる。腹が立つのも道理だ。
(ですが、皇后になりたいのであれば、いかにはらわたが煮えくり返っていても優美にほほ笑んでいられるよう訓練が必要ですね)
月麗は素直すぎると、香蘭は評価をつけた。
「ですが、ただの不幸な事故とは考えられませんわ。桃花さまはそんなに迂闊な人物ではないと、わたくしは認識しておりましてよ」
上品な口調で眉をひそめたのは明琳だ。月麗とは違い、彼女の顔には桃花に主役を奪われた恨みは表れていない。本心から感じていないのか、隠すのがうまいのか、そこは不明だが。
月麗はキッと明琳をにらむ。
「そうかもしれないわね。でも私は犯人ではないわ。私が犯人なら……明琳さま、迷わずあなたの衣装に仕掛けますもの」
やっぱり彼女は正直すぎる。周囲が騒然となるのもお構いなしに続けた。
「私のライバルになりえるのは明琳さまくらいのもの」
月麗は冷ややかな眼差しを桃花に送る。
「あの程度の舞、私の眼中には入りませんわ」
(う~ん。個人的には嫌いじゃないですが、皇后向きの人材とは言いがたいかもしれないですね)
香蘭は苦笑してこめかみを押さえた。だが、そのあけすけな心情の暴露は犯人疑惑を晴らすのには有効だったようだ。香蘭も、そして周囲も「たしかに」と納得させられてしまった。
舞の名手である月麗は実力勝負なら桃花には負けない。茶々が入るのは彼女の望むこところではないだろうし、実際に月麗は今回の件で損をした形になった。
犯人である可能性は低い。
「瑠璃妃を蹴落としたい人物か」
夏飛が小さくつぶやくのが聞こえた。そして、この場の誰もが同じことを考えたのだろう。
まるで示し合わせたかのようにみなの視線がひとりの女性に注がれる。
彼女はいつもとなんら変わらぬ人形のような顔つきで、疑惑の眼差しを平然と受け止めている。銀糸で申し訳程度の刺繍がほどこされただけの地味な黒い衣装。顎のラインでぱっつりと切りそろえられたおかっぱ髪もカラスのような黒。象牙色の肌に唇だけがやけに赤い。
瑪瑙妃、柴美芳が口を開いた。
「みなさま、わたくしをお疑いなのですね」
静かな声だ。狼狽の色も怒りの色も、そこにはのっていない。まるで他人事のように、彼女はどこまでも無関心だ。




