一 千年寵姫、モグラに生まれ変わる①
一 千年寵姫、モグラに生まれ変わる
伝説の寵姫であった貴蘭珠の死から七十年の歳月が流れた。
瑞国後宮千華宮は当時と変わらぬ佇まいで、今もここにあった。
「本当に、あの頃とちっとも変わらない」
皇帝の住まう正宮『朱雀宮』、そして地位の高い妃嬪たちの宮。それらをキョロキョロと見渡してつぶやく彼女は、名を胡香蘭という。年は十八。
名前ばかりは艶やかで立派だが田舎の下級貴族の娘で、ここへ送られたのも口減らしが目的だ。妃嬪に仕える女官のなかでも位は低く、皇帝のお手がつく可能性は万にひとつもないだろう。
「ということは、我が瑞はすっかり落ち目になってしまったのねぇ」
七十年前は最先端の意匠を凝らした美しい王宮だったのだ。しかし、今もそのままとなると、古くさく野暮ったく感じてしまう。
(このまままた数百年と時を重ねれば、趣も出ていいのでしょうけどね)
瑞の名誉のために擁護すれば、この国は今も東大陸に強い影響力を持つ大国だ。ただし一強の雄だった時代は終わってしまった。瑞に追いつけ、追い越せの国がいくつも勃興しており、今やそれらの国々からは目障りな老頭児扱いされている。
「こら、新入り! なにをぼうっとしているの。あっちも洗濯してしまってよ」
「あら、これは失礼しました。すぐに取りかかります!」
香蘭を叱責するのは同じ職場の先輩女官、詩清。あまり目立つ特徴のないおとなしそうな外見に反して、性格はなかなかに辛辣である。
彼女の言葉どおり香蘭は、ひと月前にここに入ったばかりの新米だ。彼女たちが仕えているのは妃嬪ではなく、皇帝の妹君である公主雪寧。
女官が誰に仕えることになるかというのは、非常に重要だ。後宮で強い権力を持つ皇太后、皇后に仕えることができれば待遇はすこぶるよい。加えて、彼女たちは皇帝の寵愛どうこうでは揺らぐことのない強い立場を持っているので安定性も抜群だ。ただしもともとの家柄がよくなければ回ってくることのない職場で、香蘭や詩清には縁のない話だ。
ついで人気なのは、もちろん皇帝の寵を得られそうな妃嬪たちの宮。うまくやれば自分も寵のおこぼれをもらえる可能性もなきにしもあらず。
千華宮にいる女は、下働きにいたるまでみな皇帝のもの。下級女官がその身体ひとつで妃嬪になりあがった例はいくらでもある。
もっとも、美女だと主や仲間に妬まれて顔に傷をつけられたり、最悪の場合は冤罪で処刑されたり。そっちの例のほうがはるかに多いのも周知の事実だ。
つまり、得るものは大きいが危険も大。それが有力妃嬪の女官。その逆で、どちらも少ないのが香蘭たち公主の女官だ。
東大陸は男児至上主義。同じ皇帝の血を引く子でも皇子とは待遇に雲泥の差がある。いずれは嫁ぐ身なので、千華宮で権力を握ることもできない。しかしそれゆえに職場はのんびりとしており、諍いも少なかった。
(あの水晶玉の神力の素晴らしかったこと。まさに望んだとおりの穏やかで平和な日々!)
散々小馬鹿にしていたあの水晶玉に蘭珠、いや香蘭は心からの感謝をささげた。
そう、この胡香蘭こそが千年寵姫と謳われた貴蘭珠の新しい生なのだ。
(前世の記憶がそっくりそのまま残ってしまったのは、どうしてなのかしら? 水晶玉の力、はたまた失態?)
そこはよくわからないが、香蘭は生まれ変わった自分の現状に大満足している。
(平凡な家柄、平凡な職場、なにより……)
大量の洗いものが放り込まれた籠をひょいと持ちあげた香蘭に、詩清は感嘆ともあきれともつかないため息をこぼす。
「あいかわらず、とんでもない怪力ねぇ。それはふたりで抱えるものよ」
「そうなんですね。でもひとりで問題ありませんのでご心配なく」
軽々と籠を運んで水場に向かう香蘭を追いかけながら、詩清は「モグラ、これ以上ないほどあなたにぴったりのあだ名ね」と苦笑した。
(美女じゃないって最高ですね。いちいち拝まれたり、感動されたり、妬まれたり、毒をぶっかけられそうになったりしないんですもの)
洗い場に着いた香蘭は「どっこいしょ」と籠を置いてから、よく日に焼けて筋肉と脂肪がいい感じについた自身の腕を愛おしげに撫でた。
香蘭は女性にしては背が高い。が、すらりと柳のようにしなやかなわけではなく、首はがっしり、肩もしっかり。くびれのない寸胴体型で『ずんぐりむっくり』という形容詞は彼女のために存在しているのでは?と思うような体格をしている。
そこらを歩く宦官たちよりよほど浅黒い肌を持ち、髪は黒く、艶やかさははないがコシはある。
さらに力持ちを買われて外仕事ばかり任されるのでついたあだ名が〝モグラ〟だった。ちなみに命名は
雪寧である。外で土仕事をする香蘭の姿を見て、よく似ていると思ったのだろう。まだ幼さと無邪気さを残す彼女に悪気はなく、香蘭自身も存外気に入っている。
(言いえて妙、たしかに我ながらよく似ていると思います)
水晶に願ったとおり、蘭珠だった頃とはまったく異なる容姿を手に入れた。絶世の美女とは言いがたいので、皇帝の目に留まる可能性は前世よりは低いはず。だがしかし、油断は禁物だと香蘭は気を引き締める。
「私の内なる美が隠しきれずにあふれるのが心配だわ。そうなれば、きっと陛下にお声をかけられてしまうもの」
「それって突っ込み待ちなの? 私たちは下級女官。ここにいる千人の女性たちの底辺よ。おまけにあなたは〝モグラ〟だし」
詩清は辛口だが心根は優しく面倒見のいい先輩だ。寝ぼけたことを言っている新人を本気で心配しているのだろう。だが、香蘭の悩みだって本気も本気なのだ。
「でも、モグラはなかなかその姿を拝むことができないでしょう? 殿方は希少なものに目の色を変える生きものですから」
「大丈夫よ。モグラに執着する殿方なんて見たことも聞いたこともないもの」
「そうでしょうか? それなら安心なのですが」
香蘭には前世の記憶がそっくりそのまま残っている。この〝モグラ〟には時の皇帝の寵愛をほしいままにした千年寵姫、蘭珠の自我が宿っているようなものなのだ。少し、どころでなく自惚れ屋になるのも仕方のないこと。
「妃になるのだけは、ご遠慮したいのです」
「いや、だからね」
詩清はこれ以上どう突っ込んでいいのかわからず口をつぐむ。その表情は「わけのわからない面倒な新入りを押しつけられた」という不満と「でも力仕事は全部任せられそう」という喜びが複雑に入り交じった、なんともいえないものだった。
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