二 モグラ、偽宦官になる⑤
それからほんのひと月後。焔幽はまんまと雪寧を説得し、香蘭は公主づき女官から皇帝づき偽宦官へと職務変更することになったのだった。
香蘭はやむを得ない事情により郷里に帰り、代わりに彼女の弟が宦官として宮中に来ることになった。それが焔幽の考えた表向きの説明。無理があるんじゃないかと思うが、あまり目立たぬ公主に仕えていた、下級女官がどうなろうと千華宮では誰も気にしない。
雪紗宮の同僚たちだけは悲しんでくれたので、やや心苦しくはあったが「今までお世話になりました。これからは弟をどうぞよろしく」と嘘っぱちの別れのあいさつを済ませてきた。
そして、今度は朱雀宮にひとり部屋をもらうことになった。
詩清と一緒に使っていた女官部屋よりずっと広く、調度も豪華だ。皇帝の側近は宦官のなかでも出世頭なのだ。
(気をつけていたつもりだったのに、やはり出世してしまったわね)
部屋を見渡した香蘭は小さくため息をつく。
「着替えは済んだか?」
香蘭の部屋になったはずの場所に、当然のような顔をして焔幽が足を踏み入れてきた。
袍と呼ばれる上着をかぶり、髪を宦官帽のなかにまとめた香蘭の姿を見て焔幽は満足そうに唇の端をあげた。
「うむ。予想以上に似合うじゃないか」
香蘭も鏡に映る自分の姿を確認する。よく焼けた肌も、凛々しい眉も、逞しい肩回りも、男の格好をするとちょうどよい具合にしっくりくる。宦官は男性的特徴が薄れ、女性に近づいていくものだ。具体的にいえば、髭が薄くなったり声が高くなったりする。
女性としては非常に男性らしい身体的特徴を持つ香蘭は十分に宦官らしかった。
「これなら誰も疑わないだろう。では、心して任務に励めよ。蘭楊」
それは焔幽が適当につけた香蘭の弟の名だ。ここではその名で通すことになる。
「しかし、男性の名に蘭の字はおかしいのでは?」
男の格好をしているせいか、香蘭の声と口調はいつもよりずっと凛々しい。無意識下でも有能なのが香蘭という人間だ。
この国で『蘭』は女児の名前の定番だ。もはや説明不要だろうが、伝説の寵姫、貴蘭朱にあやかって誰もかれもが娘に蘭の字を与えるようになったのだ。
「あぁ、お前の香蘭の名は貴蘭朱にあやかっているのだろう?」
香蘭には答えられない。そうかもしれないし、あの両親ならそこまで考えずよくある名前をつけただけの可能性もある。彼らから蘭朱の名など一度も聞いたことはないから後者が正解のような気がする。
焔幽はこれまで見せたことのない、甘やかな微笑を浮かべた。
「せっかく千年寵姫から一字いただいているのだ。大事にしろ」
(なるほど。陛下は私、いえ貴蘭朱の熱心な信奉者なのですね)
彼が女に興味を示せないのは男色家だからではなく、理想が高すぎるからなのかもしれない。貴蘭朱を基準にしていては、永遠に女に恋などできぬだろう。
(死後七十年を経ても、私はいまだに誰かの人生を狂わせているのですね。あぁ、罪深いですわ)
「なんだ? 日光に苦しむモグラのマネか。だとしたらうまいな」
中身が憧れの女人とは知らぬ焔幽は平然と無礼な発言をするが香蘭は気にも留めない。彼が失礼なことにはもう慣れた。
「まぁ、蘭の字が女人のものと決まったわけではないですしね。私、蘭楊の功績により七十年後には瑞国中の男児が蘭の字をつけられている可能性もおおいにありますし」
「……モグラの分際で。どこからくるんだ、その自信は?」
焔幽のほうは、香蘭の自惚れ屋ぶりにいまだ慣れてはいないようで、すっかりお決まりになった突っ込みを今日も飽きずに投げてくる。
「私が私を信じる。ごくごく当たり前のことでございます」
けろりと言い切る香蘭に焔幽はもうなにも言い返さない。
香蘭は恭しく頭を垂れた。
「かしこまりました、陛下。必ずご期待に応えてみせましょう」
こうなった以上は与えられた任務を素早く、完璧に遂行する覚悟だった。
焔幽は香蘭を生涯拘束するつもりはないと言った。皇后と三貴人の選択という任務を終えれば公主づきの女官、香蘭に戻してくれる約束になっている。雪寧もその条件で香蘭を貸すことを了承したのだ。
「雪寧に怒られたのは、今回が初めてだな」
焔幽は弱ったように眉尻をさげた。
『誰かに奪われぬよう香蘭を大事にしろ。そうおっしゃったのは陛下ですのに……。ご自分が私から奪ってしまうなんてひどいですわ』
愛らしく頬を膨らませる彼女の姿を香蘭も見ていた。
「すぐに雪寧さまのもとに戻るので心配はいりません」
香蘭はきっぱりと宣言する。
焔幽の気に入る皇后と三貴人を選ぶ。そう難しい任務ではないはずだ。なぜなら、皇帝としての彼の思考回路は蘭朱とよく似ているから。
「期待している」
ククッと頬を緩めて焔幽は笑う。香蘭はその様子を見て思わずつぶやいた。
「宮中のうわさは本当に当てにならないものですね。陛下は仮面をかぶっているかのように表情を変えないと聞いていましたが……あなたは存外によく笑うし、よく怒る」
彼につられたように香蘭の顔もほころぶ。
「あぁ、これはお前といるときだけだ。お前は本当におもしろい」
権力と美貌を兼ね備えた男に甘い台詞を吐かれているというのに、香蘭は幽鬼でも前にしたかのように顔をしかめる。
「……何度も申しあげていますが、私に恋をすることだけはお避けくださいませ。御身の破滅を招きますから」
「こちらも何度も申しておる。モグラがそう自惚れるなと」
いつもの応酬を、香蘭はいつもの台詞で締める。
「私は魔性のモグラなのですよ」
魔性のモグラ、がここから後宮で活躍していきます!
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