二 モグラ、偽宦官になる④
もったいぶった間を開けてから、焔幽はこれ以上ないほど楽しげに目を細めた。
「なるほど。その助言、しかと受け止めた」
「ありがとうございます。では、私はこれで」
夜伽を諦めてもらえたのなら長居は不要。そう思い、香蘭は腰を浮かせようとしたが衣の裾を焔幽に引っ張られた。
「まぁ、待て」
仕方なく、もう一度居住まいを正す。
「俺からもひとつ助言がある」
「なんでしょうか」
「お前はなかなか賢そうだが、早とちりが過ぎる。俺は夜伽をさせたくてお前を呼んだのではない」
香蘭は「まぁ!」と純粋な驚きをあらわにした。
袖にされた負け惜しみなのでは?と彼の顔をしげしげとのぞくが、そういうわけではなさそうだ。
「こんな夜も更けた時刻に呼び出したのに、ですか?」
「俺は政務が忙しい。夜しか空いていないのだ」
「わざわざ朱雀宮まで呼び寄せて?」
「お前は下級女官で、部屋は同僚と一緒だろう。あまり人に聞かれたくない話なんでな」
香蘭は唖然としてつぶやく。
「この私を前にして夜伽を期待しない殿方が存在するとは……世界は広い。私もまだまだ未熟でしたのね」
清々しいまでの香蘭の自惚れぶりに、焔幽はもうたまらないと噴き出した。
仮面皇帝の異名をとる彼らしからぬ爆笑ぶりだった。
「はっ、はははっ。認める、たしかにお前は魅力的だ。なんともあらがいがたい」
「それは、言われなくても知っておりますけど」
焔幽はひとしきり笑ったあとで、表情を引き締めて香蘭を見る。
「うむ、お前の魅力はよくわかった。だが、さっきの助言は守るから心配するな。俺は女をあまり好まないのだ」
ようするに男色なのだなと香蘭は理解した。といっても、蘭朱は生まれついての男色家という男性もたびたび魅了していたのであまり信用できないのだが……今は置いておくことにする。
「では、なんのために私を呼んだのです?」
「仕事を頼みたいからだ」
「仕事?」
オウム返しに聞き返した香蘭に、焔幽は彼らしい端的な説明を加えた。
「お前に俺の側近になってほしいのだ」
「先日、雪紗宮でお見かけした彼、あの方がご側近では?」
夏飛を思い浮かべながら香蘭は聞く。飄々とした男だが彼はおそらく優秀だ。香蘭は人の本質を読むのが得意なので自信はある。
「夏飛は有能だが、任せている仕事が多すぎてこれ以上は無理だ。新しい仕事に適任の側近を採用したい」
詳しく聞いてみたところ、新しい仕事とは皇后および三貴人の選定らしい。
「たった今、私を案内したくださった秀由さまがいらっしゃるじゃないですか。それは彼らの仕事です。他人の役目を奪うようなマネ、私はしたくありません」
香蘭は正論で突っぱねるが、焔幽もめげない。
「秀由は女人の価値を肌の柔らかさと声の愛らしさだけで決めようとする。それは困るのだ」
「まぁ、たしかに。それはどうかと思いますね」
顎に手を当て、香蘭は軽くうなずく。
寵愛を受けて、子を産む。妃嬪には大事なことだが、皇后はそれだけではとても務まらない。むしろそれだけなら、ほかの妃嬪たちに任せておけばいいのだ。
皇后にはもっと大きな役割がある。皇帝を補佐、ときには叱咤激励しながら正しい道を歩かせねばならない。加えて後宮の管理も皇后の仕事だ。兵士を率いるのは上下関係、褒美と罰が肝要と言われる。これも簡単なことではないがある意味、わかりやすい。対して、女の園というのはもう少し複雑で人間関係が奇妙にねじれる。これを統率することは一師団を率いるに匹敵するだろう。
「宮持ちの妃はまぁそれでもよい。毒にも薬にもならぬ女が一番いいまである」
焔幽はたしかに女が嫌いなのだろう。女性に対する物言いがいやに辛辣だ。
「だが、皇后と三貴人はそうもいかぬ。適切な人材を配置したいのだ」
(この人には……妃嬪を愛そうという心が露ほどにもないのですね)
あきれと親近感。どこか複雑な思いで香蘭は彼を見つめる。
(かつての私もそうでした)
臣下は国民は、完璧な君主というものを夢見る。美しく正しく、決して間違えない。自分たちよりはるかによい暮らしをして強大な権力を得ているのだから、民がそう望むのは当然の権利で君主には応える義務がある。
(けれど、完璧は人間らしさの対義語ですからね)
完璧であろうとすればするほど、人間ではない化けものじみた存在になっていく。むなしさに胸がつぶれそうになることもあった。
(私は今世で『香蘭』という器を得て、解放されました)
香蘭は心から現世を謳歌している。目の前の男はどうだろうか?
ふと視線をこちらに向けた焔幽に、疲れきった女の顔が重なった。死の間際の蘭朱の姿だ。
「先日、雪寧の宮でお前が女官たちを仕切っているのを見た。物事をよく見て、冷静な判断ができる女だと評価した」
「陛下……」
「胡香蘭。俺に力を貸してくれないだろうか」
真摯な顔つきで彼は香蘭の両手を握る。瞳の奥が蒼く輝く。
この美しい光もいつかはにごり、消えてしまうのだろうか。そのさまはできれば見たくないと感じた。
香蘭は彼に同情し、少しだけ手を差し伸べてやりたくなった。だが、簡単に御意とも言えない。
「協力して差しあげたいのはやまやまなのですが、側近は無理でございましょう。私は女です。朱雀宮に常駐することはできません」
皇帝の側近は宦官が務める決まりだ。女官の仕事は妃嬪に仕えること。例外はない。
「だからこそ香蘭、お前に頼んだのだ」
「はぁ?」
焔幽の瞳がいたずらに細められる。
「女にしては上背もある。この肩も腰も」
肌には触れぬという約束をあっさり違えて、彼は香蘭の身体をペタペタと触る。
「そこらの宦官よりよほど逞しい。お前が宦官の格好をしても誰も疑わないぞ」
一拍置いて、香蘭は彼の言いたいことを理解した。なにせ二度目の人生だ。そう簡単に動揺して叫んだりすることはない。
「つまり、私に宦官のふりをせよとおっしゃっているのでしょうか」
「そのとおりだ。理解が早くて助かる」
香蘭はむっつりと黙り込んで考える。
(宦官……優秀な私が宦官などすればトントン拍子で出世して政の中枢に立つことになるに決まっていますでしょう? それは平凡で穏やかな日々と縁遠くなることを意味するのでは?)
政などもうこりごりだ。香蘭はやんわりお断りしようと口を開きかけたが、焔幽に先制攻撃を仕掛けられた。
「千華宮で働く女人はすべて俺に仕えている。それを……忘れてはいないよな」
つまり依頼ではなく命令だと主張する気なのだろう。
「建前上はそうですが、実質的な主は雪寧さまです。彼女の意向を無視するわけにはいきません」
香蘭はけろりと返したが、ここは焔幽が上手だった。
「うむ、そのとおりだ。では雪寧に許可を願い出よう。お前は彼女の命なら逆らわない。そういうことだな?」
しまったと思ったがもう遅い。香蘭は雪寧のお気に入りだが、彼女はこの兄を心から敬愛している様子。彼の頼みを断るはずがないではないか。
いよいよ、香蘭が宦官に変身します!




