二 モグラ、偽宦官になる②
千華宮に夜の帳がおりた。梟の鳴き声が遠くに聞こえる。
翡翠色の屋根に朱色の柱。皇帝のための宮である朱雀宮も星明かりのもとにひっそりと佇んでおり、人々がにぎやかに行き交う昼間とはまったく別の場所のようだ。
夜の主役である幽鬼を祓うとされる白檀の香が焚かれ、まったりとした甘さが宮全体を覆う。等間隔に燭台の置かれた石畳の回廊を香蘭はしずしずと歩いていた。
洗っても落ちない泥汚れのついた服ではあんまりだろうと雪寧が衣を貸してくれたが、体型も似合う色も彼女と香蘭とでは真逆なので、いかにも借りもの感が出てしまい残念な状態だった。
もっとも香蘭ならばサッと繕い直したり、工夫を加えて自分に合うようにすることはできたのだが、あえてしなかった。
(平和な日々を守るため、今夜の使命は陛下に嫌われることですからね)
だが、その困難具合に香蘭は大きく肩を落としてしまう。
(あぁ、言葉にするとあらためて無謀な挑戦だということがわかってしまうわね。この世に、いいえ、たとえあの世でも私を嫌う殿方など存在するはずがありませんもの)
我が身に降りかかった不運に、香蘭は衣の袖口をかむ。
その様子を見た案内役の秀由が、不思議そうに首をひねった。彼は夏飛が『爺』と呼ぶ、皇帝の閨管理の責任者だ。
焔幽が即位して早半年、ようやっと彼が閨の任務――そう、皇帝にとってそれは任務。なんならほかのどんな仕事より重要な使命だ――に取り組む気になってくれた。それ自体は喜ばしいことなのだが。
「なにか?」
自分を凝視して、幾度も目を瞬く秀由に香蘭は尋ねた。彼は白いものが交ざった長い髭を撫で困惑げな声を出す。
「もう一度だけ確認しますが、本当にあなたさまが雪寧公主づきの女官、香蘭さまなんでしょうか? 実は同名の者がいるなんてことは?」
「雪寧さまづきの女官で香蘭という名を持つのは私だけですわ。雪寧さまの宮の女官はそう多くありませんし、間違いはありません」
実母の強い、公主春麗の宮には数多の女官が仕えており同名の者もいるやもしれないが、雪寧の宮でそれはない。
秀由はますます首をかしげる。もはや首がもげてしまいそうだ。
「お渡りではなく、朱雀宮に入ることを許す。それほどの待遇を、この彼女に?」
本人はひとり言のつもりだろうが、静かな夜だ。香蘭の耳にもはっきりと届いている。
瑞国での閨は皇帝が妃の宮に〝渡る〟のが作法とされている。そのため、一度でも寵を得た女には宮が与えられるのだ。
皇帝の居室、政の場としても重要な朱雀宮へは贔屓の妃であってもなかなか足を踏み入れることはできない。
それが可能なのは、国の母たる皇太后とただひとりの特別である皇后のみ。
にもかかわらず焔幽は今宵、香蘭を朱雀宮に呼び寄せた。
破格の特別待遇といえるだろう。秀由の首がもげる理由もわからぬではない。あれこれ思案したすえに、秀由はなにかの手違いがあったのだろういう結論に達したらしい。
気遣う声音で香蘭の肩を叩く。
「陛下のお手がつかなくとも、落ち込む必要はないですぞ。たとえ手違いでも、呼ばれたという時点であなたさまには宮が与えられます。宮につける名は……ちょっとぴったりくる宝石がすぐには思いつきませぬが、この秀由が考えておきましょう」
閨の管理、つまり妃嬪たちの序列の管理も秀由たちの役目だ。彼はなにかの間違いで呼ばれ、これから赤っ恥をかくことになるであろう地味な女官にすっかり同情していた。
「気を強く持つのです。多少の恥くらいで、一生の安泰が手に入る。あなたさまは実に幸運です!」
そんなふうに励まされ、香蘭は焔幽の待つ彼の室に入った。
入口から一歩も進まず、頭をさげて彼の声を待つ。それが作法だからだ。
「面をあげよ」
作法にのっとって、香蘭は顔をあげてあいさつをした。
隣室に控えている側近はいるのだろうが、ここには焔幽ただひとりしかいなかった。
「雪寧さまづきの女官、香蘭と申します」
彼は香蘭を一瞥するとヒラヒラと片手を振る。
「面倒な作法は気にせずともよい。楽にして話を聞け」
こういう言葉は建前として言う人間と本気で言う人間とがいる。彼は後者だと香蘭は判断した。ややこしく回りくどい礼儀作法。そういう時間の無駄を嫌っているのだろう。
「はい、では」
香蘭はさっそく楽な姿勢を取って、堂々と彼の顔を見た。
「察しのいい人間は嫌いじゃない」
焔幽はニヤリと笑む。
近くで見るとめったにいない美形であることがよくわかる。後ろで無造作にくくられた黒髪は艶やかで絹糸のよう。眉と鼻筋はすっきりと涼しげで品がよい。なにより瞳が印象的だ。穏やかな湖面のように静かなのに、うちに強い光を秘めている。
優美な顔つきに似合わず、体格は案外と男らしい。すらりと背が高く、無駄なく引き締まった肉体は日々の鍛錬の賜物だろう。
美麗さと力強さ、相反するはずのそのふたつを彼は完璧な調和で兼ね備えていた。もちろん、ただ造形がいいというだけではない。皇帝という至高の地位と権力、それらを飼い慣らせるだけの実力と自信。そういった覇気が彼をより神々しい存在に仕立てていた。




