序章
読みやすい、中華後宮ものを目指しました!中華苦手な方にも是非!!
序章
「あぁ、蘭珠。私を置いていかないでくれ。頼むから……」
数多の神仙の加護を受け、朱雀の化身と謳われる『瑞国』皇帝陛下にいつもの威厳はない。頬はげっそりとこけ、力なくうなだれている。周囲の目もはばからず彼が流す大粒の涙が、皇后蘭珠の頬に落ちた。
寝台に横たわるは瑞国皇后、貴蘭珠。死の淵にあってもなお、その美貌は輝くばかりだ。緩やかに波打つ髪はこの国ではえらく珍しい白銀色。まっさらな新雪を思わせる肌、穏やかに細められた瞳は極上の蒼玉、唇は瑞々しい果実のよう。神の筆と称される絵師でも蘭珠の美貌だけは再現できないと、人々は彼女をたたえた。
蘭珠が中級貴族の生まれにもかかわらず皇后にまで昇りつめられたのは、この美貌ゆえ……では決してない。男に生まれていれば大臣の座は間違いなかったであろう知性、護衛が失職すると大慌てになったほどの武芸の腕前。もちろん妃嬪としての資質も疑うべくもない。詩歌、楽器、舞、おまけに閨でのあれこれも……千年にひとり出るか出ないかというレベルの完璧な妃に、皇帝は夢中になった。
我が身よりも彼女が大切と言わんばかりの寵を注ぎ、蘭珠はいつしか『千年寵姫』と呼ばれるようになった。
「どうして! 神よ、どうして私から蘭珠を奪おうとする?」
「奪われるなど。わたくしはいつまでも陛下のものですわ。今世はもちろん、来世もその次もです」
絶えず押し寄せているはずの痛みや苦しみなどいっさい感じさせない、たおやかな笑みを彼女は浮かべた。
「なぜ病は蘭珠に取り憑いたのだ?」
「きっと、わたくしが幸せすぎたからですね。恐れ多くも天上の君からのご寵愛をいただき、臣下も民もわたくしを愛してくれた」
その言葉はまことだった。生き馬の目を抜く、血みどろの争いが繰り広げられる後宮という場ではまずないことだが……この皇后はすべての妃嬪、女官、宦官たちから敬愛され、真の意味でこの場所の主だった。
「あぁ、皇后陛下。私どもの命を代わりに差しあげられたら」
「もっと評判のいい医師はいないものか。どれだけ金を積んでもいいのだから」
どうにか彼女を救おうとする声があちらこちらから聞こえてくる。この場への入室が許されない下級女官たちは、宮に向かって首を垂れすすり泣いている。宮中のみなの悲しみの心が雨雲を呼んだのだろうか。天も涙を流しはじめた。
「蘭珠、蘭珠っ」
皇帝は目を真っ赤にして、愛する妻の身体にすがりつく。
誰もが悲しみに暮れるなか、たったひとり、まだ三十歳の若さで死にゆこうとする蘭珠その人だけはいやに冷静だった。
遠い目をして豪華絢爛な細工のほどこされた天井を見つめる。
(なぜ病に憑かれたかって、それはありえないほど多忙だったからでしょうねぇ)
「そなたの命を救うため、私になにができるだろう」
(今ではなくもっと早く! しっかりとこの国の行く末を見据えた策を立案・実行し、有能な官吏を育て、諸外国との外交に努めてくれていたら……)
「私の愛情が足りていなかったのだろうか。そなたが風邪を召したとき、ほかの妃の宮に渡ったりしたから」
(風邪のときくらい休ませてくださいまし。むしろもっと妃嬪を平等に、不平不満の出ないよう扱ってくれていれば)
ようするに、蘭珠はこのあちこち至らない夫を陰日向に支え尽くしてきたことで心身ともに擦り減ってしまったのだ。
「失礼いたします、陛下。例のものがようやく届きました」
そっと扉を開けて入室してきたのは、陛下の側近を務める宦官のひとりだ。透明にも碧にも紫にも見える、なんとも不可思議な水晶玉を彼は大切そうに抱えている。
「あぁ、やっと届いたか」
恭しくそれを差し出す宦官に、皇帝は満足げな笑みを返した。
「あれは、まさか!」
「はるか西の大陸の秘宝とされる……」
陛下の周囲にいた者たちが騒然となる。
「蘭珠。西大陸から取り寄せた宝物だ。この『千華宮』がもうひとつ建つほどの大金を払ったがそなたの命のためなら惜しくはない」
千華宮は瑞国後宮の通称だ。その名のとおり、皇帝ただひとりのために千人の女を集め、自由を奪い閉じ込めている。広大な敷地に贅を凝らしたいくつもの宮が並んでいた。
すっかり弱りきった蘭珠の両手に、千華宮と同等の価値を認められた宝はずしりと重い。
「まぁ、陛下。わたくしなんかのためにこのような……」
蘭珠の美しい瞳は潤ませるのは感激、ではなく悲哀の涙だ。
(なんと阿呆な! こんなどこからどう見てもうさんくさい代物にそんな大金を?)
必死に策を弄して国庫を太らせてきた妻の努力を、この男はなんだと思っているのだろうか。
(いえ、万歩譲って無駄遣いは許しましょう。しかし西大陸に金を流すとは、陛下はこれまでの四十年でなにを学んできたのでしょう)
さめざめと涙を流したいところだが、もう体内の水分も栄養分も不足しているのだろう、号泣するほどの力は残っていない。
文字どおり命懸けて尽くしてきた男の間抜けた面を、蘭珠はあきれた気持ちで眺めた。
この男、見目はなかなかよいのだ。背が高く筋骨隆々、甘さのない凛々しい面差しはなよなよした宦官の多い千華宮ではとくに見栄えがする。だがしかし、甘さのない顔立ちとは裏腹に頭のなかは饅頭よりなお甘い。見栄えばかりに気を使い、肝心の味はただただ甘いばかりでいまいち。そういう饅頭はよくあるが、彼はまさにそんな感じ。
とはいえ、長く仕えた夫だ。馬鹿な子ほどなんとやらというやつで、案外と情は移った。散々迷惑をこうむってきたが、どこか憎みきれないところもある。蘭珠はそっと彼の頬に手を伸ばした。
「あぁ。蘭珠。私の宝石、私の最愛の……」
(そうね。この方はわたくしを愛することだけに人生を費やしてしまったのよね。わたくしが美しく、聡明で、才気にあふれ、床上手だから! まさに傾国の美姫、罪深いですわ)
そういう女性は得てして悲運な道を歩むものだ。自分がこうなるのは自明の理。蘭珠は自らの死を受け入れる覚悟を決めそっと目を閉じた。みながハッと息をのみ、言葉にならない嗚咽を漏らす。空気の読めない皇帝だけが運命にあらがおうと声をあげた。
「大丈夫だ。この水晶はどんな願いをも叶える力がある。さぁ、この玉に生きたいと願うのだ」
(そんな! 最期の瞬間にこんな安っぽいガラス玉を抱えて死ぬなんて嫌だわ。もっと、わたくしに似合いそうな可憐な一輪の花とか持ってきてもらえないかしら)
瞳を閉じたまま蘭珠は悪態をついた。
「さぁさぁ、願え」
最期の願いなのにもかかわらず夫は察してくれないようだ。彼はこの水晶玉が本物で、蘭珠の病がたちまち消えていくものと信じて疑っていないような顔を見せている。
「あぁ、陛下と皇后さまの愛のなんと美しいことでしょう」
女官たちがうっとりとしたため息を漏らす。場の空気に押され蘭珠は力を振り絞って、渋々言葉を紡いだ。
「かしこまり……ました。祈り、ますわ。わたくしの願いを」
つるりとした水晶玉を撫で、心のなかでつぶやく。
(願いを叶えてくれるというならば、わたくしに幸せな来世を! 絶世の美貌などいらないから、平凡でささやかで温かい日々を。――寵愛はもう、こりごりですので)
数多の王朝や民族が数百、数千年と覇権を競い続けてきたこの東大陸。その荒波のなかで長い歴史を刻んできた瑞の国。現在は大陸のちょうど真ん中に広大な領地を持ち、押しも押されもせぬ大国として君臨している。
その瑞国の生きる伝説とも呼ばれた偉大な皇后、貴蘭珠がたった今、三十年の短い人生に幕をおろした。
蘭珠が『うさんくさい』『安っぽい』とこきおろした、かの水晶の力はどうやら本物だったようだ。悪態をつきまくり、その効力をいっさい信じていなかった彼女の願いすら水晶はあっさりと叶えてしまった。
そんなわけで、貴蘭珠は望みどおりの来世を賜った。
この物語は身分も美貌もなく、もちろん高貴なお方からの寵愛などには生涯縁のなさそうな、ひとりの平凡な女が主人公だ。




