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9 観覧車

 さて、観里と実際に疎遠だった時間は、三ヶ月でしかなかった。

 二年九か月、千日という時間の重さは、どこかから差し込まれたものだ。

 でも、それがわかって今更どうなる──僕と観里は「正史」をなぞるように早々に別れ、僕は佐夜といることを望み、佐夜も僕といることを望んでいる。その望みこそ、この折りたたまれた恋愛歴の中で、彼女たちを傷つけながらも僕が導き出した結論だった。それが揺らぐことはない。

 僕は「三ヶ月」という事実から逃れるように、佐夜の手を取った。佐夜は、ちょっと驚いたようにぴくりと震えた後、ゆっくりとその手を握り返してきた。やや冷える夜だからだろう、前に感じたほどの熱はなかった。

「ね、あれ、乗ろう」

 佐夜が指さした先には、大きな観覧車がそびえていた。

「いいよ」

 僕らはどこかのテーマパークの中にいた。住宅街と違って、行こうと思わなければ行くことのできない場所。閉園間際、人々が満ち足りた顔をして出口を目指すのと逆行して、部屋着にクロックスの佐夜が観覧車に向けて歩いていく。ちぐはぐだが、僕にとってはごく自然な景色に見えた。

 観覧車のふもとはガラガラで乗り場まで一直線だった。ゆっくり流れてくる深い緑色のゴンドラに僕たちは足を踏み入れる。函が少し揺れて、扉が閉まった。窓の外に目を向けると、さっきまで立っていた地面がゆっくりと沈んでいくのが見えた。ちょっとの恐怖と、高揚感。空を見上げると僕らを招き入れるように星々が煌々と瞬いていた。

「このまま宇宙まで上っていきそうだ」

「ロマンあるね」

 耳のすぐ近くで佐夜の声がした。僕の横に座って、身を乗り出して僕と同じ方向の窓を見ているので自然と顔が近くなる。その横顔を見て、僕は佐夜と生きていくんだな、と強く感じた。ここから僕らが別れることになるビジョンが見えなかった。ここが僕の恋愛歴を折りたたみ尽くして残った、ひとつの極点なのだ。

「佐夜」

 僕は彼女を呼ぶ。ふっと、無邪気な小動物のように佐夜はこちらを見る。

「好きだよ」

「私も」

 佐夜は外を見るのをやめて、すとんと僕の隣に収まりながら、言った。自然と手が触れる。部屋着で出てきてしまったからかその手は冷たい。僕は、僕自身の熱を与えるように、強く握り返した。

 佐夜の双眸が僕をじっと見つめていた。その眼差しの近さに胸の奥で心臓が大きく揺れる。僕と佐夜の間が限りなくクリアに開けているように感じた。

「佐夜……」

 呟いたその名前は質感を持って、僕自身の骨身に響く。

 強い引力を感じる。僕はその唇に向かって目を閉じた。

「由浩」

 佐夜は言った。

「──この先もしたの?」

「この……先、も?」

 どういうことかわからず訊き返してしまう。佐夜は僅かに首を傾げる。細い前髪がほんの微か、揺れた。

「私には、わからないから」

 わからない。暗く、ひりつく、思考の隘路。僕がここに至るまで幾度となく耳にしてきた言葉だ。

「それは、わかってはいけないと、僕自身が決めたことだから……?」

 どこかで聞いた覚えのあることを僕は口にする。きっと、そうではないのだと、予感しながらも。

 彼女の口にした「わからない」は、今まで耳にしたものとは、根本的に違っている気がした。僕の問いに、佐夜の目が少しだけ、見開かれる。花が呼吸をするように、睫毛が動く。それから、薄紙一枚分の悲しみを挟んだ表情をして言った。

「違う。私の意識がなくなってしまっていたから」

 何を……と言おうとしたが、全く声が出せなかった。

 佐夜は言う。

「私に覚えがあるのは、由浩が手を繋いでくれていたってことだけ。あの時、初めて、由浩が私のことを好きだったんだって確信できた。でも、それより、後のことは──」

「佐夜……何を言ってる……?」

 僕には、そうやって彼女の話を遮ることが精一杯だった。ゴンドラの床がぐにゃりと融け出して、少しずつ足場がなくなっていくような、うすら寒さが駆け抜けていく。

 そんな僕を見て、佐夜は戸惑った表情をした。

「由浩、どうしたの……」

「どうしたのって……僕の方こそ、どうしたのって訊きたいよ……」

 意識がなくなった? 覚えがある? どうして、過去形で喋っているんだ。どうして、まるで自分というものの決着をすでにつけてしまったような口ぶりで、話しているんだ?

 すると、佐夜は何かに弾かれるように、すっと僕から身を引いた。

「もしかして……忘れてしまったの……、私のこと……?」

 僕を見据えるその瞳は、失望の予兆ともとれる不安の色を湛えていた。

「忘れるわけがない!」

 僕は強く言った。原理的に忘れられるわけがない。僕は、佐夜への愛情を確かなものにするために、他の恋人たちを傷つけ、彼女たちの時間を無駄にさせてきたのだ。今更、忘れるなんてそんなことは許されない。

「それなら……言って」

 佐夜は縋るように、僕を見つめた。

「私と、キスをしたの?」

 ぐらりと、視界が揺れる。ゴンドラが風に煽られたわけではない。函の外は全く静かで落ち着いていて、憎いほど綺麗な夜景が広がっていた。

「……………………」

 僕は、大きな沈黙をした。

 わからないのではない。答えはわかり切っている。

 ──前の恋人とは、手までしか繋いでない。

 ──マジ? すご、肝いりじゃん。

 そんな、彩との会話の記憶がある。

 ──僕らの恋愛は、晴々と愉しく完成されていて、邪魔者もなく、危うい意味で純粋だった。手すら握ったことがない。

 静子と歩いている時、そう思った記憶がある。

 前の恋人とは、手までしか繋いでいなくて、静子とは手を取ったこともない。

 つまり、僕が手を握ったのは幼馴染みの佐夜だけであって、そこが上限だということだ。

 僕は佐夜とキスをしていない。

 僕の恋愛歴に、克明に記されている事実だ。

 でも、それを佐夜本人に質問されて、それに答えることの意味は途方もなく大きい。あまりにも大きすぎて、目を逸らしたりせずとも見えなくなるくらいに。

「……僕は、君も失うのか?」

 僕は訊かずにはいられなかった。そうしなければ、僕は、どうしても先へ進むことはできなかった。佐夜は僕の頭の中を遥か見通すように、瞼を僅かに下ろす。

「由浩が、他の恋人全員と別れたと報告してきた時……もう、心が決まっていたのかと思っていたけど」

「心が決まる……」

「ねえ、何のために、わざわざ由浩は、自分の恋愛歴を折りたたむようなことをしたの?」

 佐夜は問う。彼女はどこまで知っているのだろうか。僕は少なくとも、自分で恋愛歴を折りたたもうと思った覚えはない。しかし、どっちにしたって、それはとっくに僕の中で折り合いのついていた問題だった。

「それは、佐夜とずっと一緒にいるためだ」

「それなら、どうして他の恋人全員と別れてしまったの? そうすることで、この生活の瓦解が進むとわかっていたはずなのに」

「瓦解じゃない。君に収斂したんだ」

「どうしてそう思ったの」

「僕は君が好きで、君が僕と一緒にいたいと言ってくれたから」

 佐夜があの部屋から出て行く想像が全くつかなかった。だから、僕はこの生活の全てを彼女に置いて、過ごしていけると確信して彩と別れることを選んだのだ。

「私を信じてくれたんだ」

「うん、もちろん」

「それは、嬉しい……でも」

 佐夜ははっきりと、寂しさをその表情に浮かべて、言った。

「……恋人を別つものはすれ違った感情だけじゃない」

「……佐夜」

 僕は、彩の手から血まみれのガラス片を取り上げた時の感触を、その血の匂いと共に思い出す。彩好みの「マトリックス」的なしょうもないパロディ──『不思議の国の真実を暴きたい』という本家の台詞がリフレインする──その時になって初めて知ったつもりになれた、僕の佐夜に対する愛情が、その真実のほんの一端にしか過ぎないのだとしたら。

 ──そのトラウマはいつでも由浩の無意識にあって、絶えず意識の中に回帰するんだ。知らず知らずのうちに印象的な言葉や現象になってね……。

 彩の声が言う。絶えず回帰する、反復する、僕のトラウマ。

 それは──。

「由浩は私に対するその確かな愛情のために──私を失う」

 佐夜は言った。

「この世界で、もう一度」

 その瞬間、記憶の箍が外れたように、僕はこの世界ではなかった世界のことを思い出していく。それは僕が「わかってはいけない」と彼女たちの口を通じて命令していた感情の鍵となる記憶。

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