8 欠けた三ヶ月
僕は彩と別れた後、歩いて佐夜の待つ家に帰った。道中のことはよく覚えていないが、とにかく暗くて、星がよく見える夜だったことは印象に残っている。浅く冷えた空気に流されてか、酔いはいつしか消えていた。
家の中は暗かった。佐夜はベッドの中で眠っていたが、僕がのぞき込むとぱちっとその目を開いた。起こしちゃった? と声をかけようとしたけど、口から出たのは違う言葉だった。
「彩と別れた」
「……そう」
佐夜の返答はいつものように簡素なものだったけど、この生活が目指すものがわかった今では、その声音すら優しいものに感じられた。
「でも、これで正しい生活の形になったんだよ」
「どういう意味……?」
「恋人はひとりだけ。そういう形に収束するように、この生活はシミュレートされていたんだ」
佐夜は頭を枕に預けたまま、僕の顔をまっすぐに見つめた。
「由浩に残った最後のひと。それが、幼馴染の私ってこと」
「うん……そう気が付くまで、随分、遠回りしてしまったけど」
「そっか……それが由浩の答えなら、そうなんだね」
佐夜は、身を起こす。それと同時に、彼女のお腹がくぅ……と鳴った。
「何か頼もうか」
「ううん……外に食べに行こう」
僕は驚いた。食事で出たごみを処分することで生計を立てている佐夜が、外食を希望するのは珍しい。
「夜だから、開いてるとこ限られると思うけど」
「マックがいい」
「結局、ごみは捨てたいのな」
「まあね」
僕は苦笑しつつ、佐夜と連れたって外へ出た。二年九か月、一緒に暮らしてきたわけだけど、揃って外出するのは実は初めてかも知れない。まあ、当然と言えば、当然だ。
「……当然だよな」
僕は思わず確かめるように呟く。それに反応して佐夜が、顔をこちらに向ける。
「何が?」
「いや……何でもない」
佐夜は部屋着のままで出て来ていた。歩くたびに、つっかけてきたクロックスがパスパスと鳴る。
ほどなく店について、適当に目についたバーガーを注文して、ふたりしてぼそぼそと食べる。食事中は静かなものだった。僕たちは幼馴染だから、今更、そういうことに変な緊張を覚えることはない。全部食べ終わると、佐夜は全ての残骸を回収してゴミ箱に突っ込む。満腹感と共に僕らは店を出た。
「ねえ」
夜道をふらふら歩きながら、佐夜は言った。
「何?」
「二年九か月って、何の期間だったのか、わかる?」
僕は言葉に詰まった。その名前をまた、口に出すのがはばかられたのだ。でも、敢えて口にしないことは別の意味を生んでしまうかも知れない。僕は苦手な食べ物を口にするような気分で答えた。
「観里と僕が連絡を取らなかった期間だよ」
「うん。でも、どうして、そんな半端な期間なんだろう」
「半端かな? 日数にしたら千日だよ」
僕と佐夜は住宅街を歩く。僕が住む場所はベッドタウンだから適当に歩けば住宅街に差し掛かるはずなのに、なぜか観里の名前を口にしたせいで、またここへ迷い込んでしまったような気がしてしまった。そして、立ち並ぶドアのどれかから、観里のあの立ち姿が現れるような、予感も──。
どうしてだろう。静子や彩と別れた時には二度と会わないだろうという、仄かな確信があったのに、観里だけはまた不意に現れるような予感があった。実際、全く予想しない形で再会した経験があるからかも知れない。そして、観里と並んでそのまま一緒に歩いていくことを、知らぬ間に僕の無意識が期待しているのだろうか
観里と知り合ったのは、大学三年生の時だった。初めて顔を合わせたのはとある企業の夏のインターンで、同じ大学だという共通点から話を広げていったら、実は同じゼミだったことがわかった。観里はゼミの空気に馴染めずに欠席しがちだったため、僕は知らなかったのだ。
観里は、インターンで苦労していた。思ったことを思ったまま言ってしまうので、コミュニケーションがちぐはぐになりがちで、相手が戸惑ったり、誤解したりしたまま作業が進んでしまい、結局、成果報告での感触は芳しくないものになってしまった。
観里が思いつめた顔をしていたのに気が付いて、いてもたってもいられなくなって、僕は慰めの言葉をかけた。
最初、観里はひどく怯えていたけど、僕が善意で話しかけたことを理解してくれると、安堵するように肩の力を抜いた。
『大丈夫です……私が普通に生きていけないことがわかって、よかったです』
観里はそれを確かめるためにインターンに応募したのだという。そして、どうせゼミもやっていけなくて卒論も書けないだろうから、大学は中退するつもりだと語った。中退してどうするのか、と訊いたら黙ってしまった。その沈黙に嫌なものを感じた僕は、せめて大学は卒業しよう、と提案した。
幸い、厳しい教授ではなかったから(だからこそゼミ生の雰囲気が緩くて、観里が馴染めなかったというのもあるけど)、僕が融通すれば必要な単位が手に入る見込みはあった。
余計な世話かと思ったけど、観里としても中退という選択は後ろ髪を引かれるものだったようで、卒業は目指すことにした。それなら、ということで僕は、「せっかく新卒というカードがあるんだから、ダメ元で就活をした方がいいよ」と勧めた。別に失敗してもいい。就職を決めずに卒業した先輩もいるから、とあれこれ言った。観里は乗り気ではなかったけれど、とりあえず頷いてくれた。
結果から言うと、全然うまくいかなかった。観里は数々の落選メールに心を病み、度々僕に助けを求めた。僕も、彼女を頑張らせる方向に励ましてしまったという責任を感じていたので、じっくりと彼女の話を聞いた。
そして、小雨の降る夜だった。その日もいつものように相談に乗った後の別れ際、観里は僕の腕を取って絞り出すように言った。
『もっと、一緒にいたい……。住本くんを、辛いときに会う人にしたくない……』
僕は呆然とした。僕の人生の中で告白されたのはそれが初めてだったのだ。あの時ほど、雨の音が大きいと感じたことはなかった。返事をするのに少しの時間が必要だった。
まず断ることも考えたけど、僕がここで彼女の腕を拒んでしまったら、観里は死んでしまうような気がした。それくらい観里は追い詰められていたのだ。
観里はこれまで僕が過ごしてきた恋人に比べると、地味で控えめな性格だった。静子と彩という魅力的な子との交際を経て、佐夜への愛情を確立した僕が、そんな彼女を好きになる見込みなんてない。
『……いいよ』
だから、僕は答えた。
『僕も、辛い顔だけを見ていたくないから』
久しぶりに本音を口にしたな、と思ったことはよく覚えている。そうやって僕は観里と恋人になった。
その後、僕は彼女と知り合ったインターンの会社に就職できた一方で、観里は就職せずに専門学校に入った。両親からは反対されていたようだが、主張することの少ない観里が示した唯一の希望であり、現在の彼女の惨状を見かねて了承したようだった。だけど、結局、そこにも馴染むことができなかったらしい。彼女は頻繁に僕に会いたがった。
恋人関係についていえば最初はうまくいっていた。観里は毎回、悲愴な顔立ちで僕の前に現われたが、一緒に過ごすうちに表情が和らいでいく。こんな僕でも役に立てているのだ、と思うと僕の方まで心が落ちつき、彼女が去り際に見せる小さな笑みは僕に活力をくれた。
しかし、後に僕はいろいろと面倒な部署に配属されてしまい、自分のメンタルの世話で手一杯な状態が続いていたので、彼女の救難信号に応えられるかどうかは時と場合によるようになってきてしまった。貴重な休日を潰して会いに行けば悲愴な観里の姿がある。その負の感情が僕に移ってきて、どんよりした一日を過ごすこともままあった。
そのうち、僕は彼女と会うのを控えるようになった。彼女を癒しきれない自分に嫌気が差していたし、彼女を慰めることに倦みつつもあったのだ。そしてある時、僕は重要な顧客との取引がストップするくらいのミスを犯して、観里に返事をする気力も出なくなる。
そうして、僕らの関係に冬が訪れた。
とある春の日、僕が有休を取って地元に帰り、いつのまにかできていたパン屋で手土産のパンを選んでいる時、観里から連絡が来た。
『別れてください』
『私はあなたにふさわしくないので』
そう、それは僕と佐夜の日常の中に青天の霹靂がごとく舞い込んだ、観里からのメッセージと同じ文面だった。
僕は息を止めてトーク画面を開いた。その瞬間、最後のメッセージが届く。
『その根拠は、三か月の間、あなたが私に連絡をくれなかったことです』
──三か月?
そうだった。観里との空白の期間は、本来は三か月だった。二年九か月ではないし、そこまで間隔が空いてしまった関係は、自然解消したと捉えるのが普通だ。
ともかく「正史」の僕はそのメッセージを見て、すぐに地元からとんぼ返りして観里に会いに行った。僕と観里はごく普通の話し合いを行って付き合いを解消し、その後、顔を合わすことはなかった。




