7 言いちがい
その晩、僕と佐夜が配達されたうどんを食べていると、静子から別れたい、という旨のメッセージが届いた。
『とても悪い感情が起こってしまいました。直入に言うと、別れてほしいのです。住本くんは悪くないです。私は変わらずに、あなたを好きでいると思います。ただ、私は、住本くんを高校時代の誰もが憧れるような恋愛に縛り付けていた私自身が許せなくなってしまったのです。そんな幼稚な私だったからこそ、住本くんは私を好きでいることを辞めてしまったのだと思います。そんな関係に耐えられるほど、私はふてぶてしくいられません。ですので、潔く終わりにしましょう。ごめんなさい。静子』
「正史」で僕を振った静子の態度に比べれば、相当穏便な文面だった。それでも僕を襲ったショックは当時と遜色ない。僕はスマホを投げ捨てると手で顔を覆い、深い溜め息を吐いた。佐夜はそんな僕を気にしながら食事の後片付けをする。残ったスープを捨て、空の容器やカトラリーをゴミ袋へと放り込んでいく──。
「静子と別れた」
やがて、僕は佐夜にそう言った。仕事の済んだ佐夜はベッドの縁に座りながら、短くを返事をする。
「そう」
「佐夜……僕にはこの生活が終わりに向かっているとしか思えない」
「私が今、この布団の下で、由浩をどうやってフるかせっせと考えてるように見える?」
「そうは思いたくない……でも、きっと、そうなるんじゃないか」
だって、過去の恋人たちと同時に過ごせるなんていう生活、ありえないんだから。本来、あってはいけないんだから。観里によって突き付けられた「二年九か月」という日数によって僕の中に芽生えたカタストロフへの予感は、その大きさをどんどん広げている。
「……私はこの生活が終わって欲しいなんて、望んでない」
佐夜は言った。その言葉は多少なりとも慰めにはなったが、そう甘くはないことはわかっている。僕はベッドの脇に寄って白いスツールに腰かけた。
「知ってるよ……でも……今、僕が暮らしているのは『恋愛歴』……元恋人たちとの暮らしなんだ。折りたたまれた過去を、現在として過ごしてる……それは、つまり……」
「私と別れることは運命づけられている」
「そうなる……でも、僕は嫌だ。そんなに辛いことが立て続けに起こって、君とまで別れることになってしまったら、僕はどうかしてしまうよ」
僕は佐夜の手に触れる。布団をかぶって温まっているせいか、とても熱い手だった。佐夜は潤んだ目で僕を見上げる。
「私、由浩とずっといたいよ」
「僕も君といたい。だから……絶対に、僕と別れないでほしい。僕をひとりにしないで欲しい……」
「大丈夫。私はここにいる。だから、由浩も、そうしていい……」
そう言って、佐夜は熱くなった手で僕の手を握った。手を包まれただけなのに、温泉に浸かったような心地よさが、全身に染み渡っていく。僕は目を瞑った。そうすることで、もっと近くで、佐夜の熱に触れられるような気がした。僕は僕の中に、佐夜に対する深い愛情が流れていることを確かに感じた。
彼女の熱が僕の熱と交わって、区別がつかなくなるくらいの時間、僕たちは手を重ねていた。深い寝息が聞こえる。佐夜は眠りに落ちたようだった。僕も眠気にまどろみながら、残り香のような温もりにたゆたう。
そんな静かで幸せな時に、なぜか、僕は観里の言葉を思い出した。
『住本くんは、私に対する無関心を徹底的に深めようとしている』
僕はそれを否定しようとしたけど、僕の佐夜へのこの愛情を観里が知っていたのだとしたら、そう思ってしまっても仕方がない気がした。想いの深さを定量化することはできなくても、比べることはどうしてもできてしまうから。
ふと、僕は目を開けた。不意に、何かが引っ掛かった。何だろう。
逆だ、と、思った。
何が、だろう。何が逆なのか、と僕は考える。
『きっと、それをわかっては、いけない……』
また、記憶の中の、観里の言葉が割り込んできた。わかってはいけない、と繰り言する。何故、なんだろう。どうして、わかってはいけないんだろう。
そして、何故……僕は、わかってはいけない、と、わかっているんだろうか。
「──僕自身で、決めたことだから」
不意に佐夜ではない、他の誰かの声が言った。僕は驚いて、飛び上がる。手元のグラスががちゃんと音を立てて、浮かぶ氷がくるくると回った。知らない間に、僕は自宅ではないどこか、酒が飲める店にいた。映画のシーンが切り替わるような劇的な移動だった。
ショットグラスの高く積まれた丸いテーブルの向かいで、音道彩がしてやったり、という顔をして座っていた。照明にあたった金色のツインテールが鈍く光っている。その色を見て、僕は咄嗟に頭の中で呟き直す。「さよ」ではなくて、「さや」……彼女は音道「さや」だ……。
「何の話」
そして、僕はなぜかわからないけど、不機嫌だった。自分の声に刺が混じっているのを、他人事のように聞いていた。彩は可愛い顔をして、今日も酔っていた。
「私さ、フロイトのことを心理学者って言う人、信用しないんだ。彼は、精神分析家だよ……オイディプスのコンプレックスだよ」
「だから、何の話」
「無意識の話だよ。あんたホントに大学出たの?」
「わかるかよ。あと言いたいだけのシンプルな悪口ほんとにやめろ」
彩はにまにまと笑いながらテキーラのショットを呷った。強いアルコールの匂いが香った。彼女は酔うと普段からは考えられないくらい攻撃的になる。攻撃的というか、人を怒らせてキャッキャと喜ぶ。僕はなんとなく、彩はたとえどんな拷問を受けたとしても、この人をコケにしたようなにまにま笑いをやめないだろうな、と思った。
彩は飲み干したグラスをタワーの上にそっと積み重ねながら、僕を上目遣いに見る。
「人って本当のこと言われると怒るというか、気にしてることを言われると怒るんだ」
「前にも同じこと言ってた」
「それで、あんたは機嫌損ねてるところなんでしょ。前の恋人のことを、そんなに好きじゃなかったんだって、私が言ったから」
「正史」にある記憶の続きなのだろうか。僕はあの時と同じように猛烈に腹が立った。
「だから違うって言ってるだろ」
何でこんなに苛立ってしまうのか、わからなかった。佐夜との静かな時間を突き抜けて、情緒の逆側に出てしまったのかも知れない。幸福の向こう側に、憤怒があるのかどうかは定かではないが。
「由浩の主張はどうでもいいんだ。ただ、その態度が大好きなの」
彩はうっとりと言う。憎いくらい可愛い表情をしていて、それにツインテールがよく似合っていた。僕はますます頭に血が上った。
「君さ、ほんと性格悪いよ。やばいからね」
「あはは、ほらね。ホントのことだから怒ってるんだ。由浩がその静子って子のこと、そこまで好きじゃなかったって証拠だ」
「この」
僕は勢いよく立ち上がった。椅子が倒れて、机が大きく揺れる。彩の積み上げたショットグラスタワーは呆気なく倒れて、無残に砕け散った。
彩は落ち着き払った様子で、僕を見上げる。
「何マジになってんの。本当のことでしょ」
「『本当のこと』を免罪符にするなよ。それは他人を傷つけたい奴の常套句だ」
「そうだよ。私は由浩を傷つけたいんだもん。だって、由浩は、別に好きでもない子を、別に好きでもないからできた行動で傷つけた後で、別に好きでもない私と付き合ってへらへらしてる。そんなに隙だらけなんじゃ……突きたくもなるよ」
「は……?」
僕は静止した。冷や水をぶちまけられたような気分だった。僕は、別に好きでもない彩と付き合っている──だと。
「いいよね。恋人表象。別に好きじゃなくても特別な関係が担保されるから」
彩はずけずけと、とんでもないことを言う。一切、遠慮がない。だから、僕も容赦を忘れて、彩に何もかもをしてもいいようなおぞましい衝動に駆られた。
ただその直後、僕は血の上り詰めた頭で、どうしてか冷静に考えることができた。人は話し相手に本当に検討外れなことを言われた時、「遠慮がない」と思うだろうか。心当たりがあるから、そう思うのではないだろうか。
僕はやはり、彩の言う通り、静子のことも彩のことも好きじゃなかったのだろうか? 僕が必死に隠そうとしていることを、彩が引っ張りだそうとしているからこんなに怒っているのか? だとしたら、これはどこから来る怒りなんだ? どうしてこんなにむかつくんだ?
何故、僕は彩のことが好きじゃないんだ?
「……君はどうなんだよ」
酔いと混乱が極まった僕は、出し抜けにそう訊いた。彩は拍子抜けしたような顔をする。
「私? 何が?」
「君は、僕が好きだった?」
彩は目をしばらくぱちぱちとしていたが、やがて観念したように静々と言った。
「……うん。好きだよ。こうなった時に殴ってこないから」
そのしおらしさに僕はなんとも形容しがたい気持ちになった。怒りが急速に引いて明瞭な意識が戻ってくる。
すっかり冷えた僕の脳裏に残ったのは──僕が隠しておきたかった本当の感情だった。
僕は椅子に腰を下ろすと、改めて彩と向き合った。
「ごめん──やっぱり、僕は君のことが好きじゃないみたいだ。魅力的な人とは思うけど」
僕の告白に彩は呆れたように笑った。
「いや……バレバレだったから」
「そうなのか……でも、僕たちは『正史』で一年くらいは付き合ったよね」
「多分。お互い付き合うことを望んでたから」
「それを途中で……耐えられなくなった君が、望まなくなった」
「はっ、違うでしょ。由浩が何かに気が付いてしまって、望まなくなったの……ふふ、気が付かなければ私たち、結婚までいってたよ」
彩の言葉に、僕は息を呑んだ。
そうだった。
どうして、今まで、僕が一方的にフラれる側なのだと錯覚していたのだろう。彩と別れたのは僕から切り出したからだ。
「僕の方から、彩に別れを切り出した……のか。だとしたら、僕は何に気が付いたんだ?」
「どうして、自分が何かに気付いたことを忘れてるの?」
「僕は……」
行き詰ってしまった。自分の経験のはずなのに、綱引きの綱をぱっと離したように、うやむやになってしまう。何で、いつも肝心なところでこうなるんだ。
そんな様子の僕を眺めながら、彩は割れたショットグラスの破片をいじっていた。
「ねえ、今度はちゃんとフロイト先生。由浩は意識から何かを放逐している。何かを抑圧して忘れようとしている。その何かは由浩の心の傷、トラウマ。それはあまりにもショックなことだから、意識からは絶対に隠さなくちゃいけない。でも、そのトラウマはいつでも由浩の無意識にあって、絶えず意識の中に回帰するんだ。知らず知らずのうちに印象的な言葉や現象になってね……」
僕は彩の言葉を茫漠とした気持ちで咀嚼する。僕は何かのトラウマの記憶を抑え込んでいる。それでもトラウマは戻ってくる、よくわからない言葉や現象になって──。
「その、僕のトラウマって何だ?」
「さあ。由浩が無意識に忘れてるものなんだから」
「そ、それもそうか……で、その言葉や現象っていうのがこの折りたたまれた生活?」
「そう。この女の子たちに囲まれた夢のような生活は、由浩の潜在的な無意識から回帰した何か。しかし、フロイト先生曰く『夢に現れた傘は往々にして傘である』」
「何が言いたいんだよ」
「何も言えないってこと。少なくとも、この私には──」
彩は危うい手つきでグラスの尖った破片を取り上げると、ためらいもなくぎゅっと握り締めた。僕はぎょっとして声を上げる。
「おい、何やってんだよ」
「いいから」
彩は僕を目線で制した。その綺麗な指の間から鮮血が零れ落ちていく。それから違う方の手で別の綺麗な破片を拾い、真っ赤に染まった掌と並べて僕に見せつけてきた。
「ってことで、これが最後のチャンス」
「……映画のシーンの真似? あの、超有名な」
「由浩がこのまま私との恋人を続けて安寧の中を生き続けたいなら、綺麗な欠片を……私と別れて不思議の国の真実を暴きたいなら、赤い欠片を取って」
僕は唐突に突き付けられた選択肢を見下ろした。クリアなガラスの欠片と、血に染まった欠片──そのあまりの赤さに、僕は微かな嘔吐を催す。
「何で、ここで僕の意思が問われなくちゃいけないんだ」
「これが、あんたの話だからだよ」
彩はそう言って、僕を胡乱な目で見る。アルコールが回って、痛みを感じていないのだろうか。掌からはどくどくと血が溢れて、机の上に滴り落ちている。その痛々しさが、僕に決断を急かすようだった。
「僕は君と別れなくちゃいけないのか?」
「そう思うならそうすればいいよ……でも──」
彩は少し陰の差した表情で、言葉を詰まらせる。
「別れたくないとは言わないんだね」
「……」
僕は、自分の呼吸がどんどん浅くなっていくのを聞いた。差し出された二つの掌が、モニターの向こう側にあるような、現実感のなさを帯びていく。
答えははっきりと決まっている。僕は別れたくなかった。
ただ、それは彩と、じゃない。
──佐夜と、だ。
恋愛歴の折りたたまれた生活は瓦解に向かっている。恋人はひとりずつ、元恋人に帰っていく。僕の歩んできた恋愛史に従って、彼女たちの方から離れていくのだ。しかし、彩だけが、「正史」において、僕が僕の意思で別れた恋人だった。歴史に従えば彩の方から恋人を解消することはない。
つまり、もし、ここで僕がクリアな欠片を選べば、原理的に恋人の消失はストップするだろう。それは瓦解を止めることに繋がり佐夜との関係も保持される。
『現状維持だよ……』
そして、佐夜自身もそれを望んでいた。
「佐夜……」
僕は、この手に感じていた佐夜の熱を思い出す。僕ははっきりと、あの熱を失いたくないと思った。
現状維持。ただ、選ぶだけでそれができるなら、それでいいじゃないか。
僕はそう決め込んで、腕を上げる。クリアなガラス片を手に取るために──。
「さよ、じゃないよ」
そんな時、彩は一言、訂正した。
「私は、さや、よ。一文字違い」
血を流しながら。
「──」
僕は手を止めた。きっと綺麗なグラスを取っても、彩は掌から血を流し続けるだろう。僕からの愛情を決定的に受け取ることができないというスティグマを追って、いつまでも癒えない傷を抱え続ける。彩は僕のことがどうしても好きだから。
それでも、僕は、彩と別れたくない、とは言わない。言えない。絶対に。そういう確信があった。それはこの瞬間から抱き始めた、というものではない。この感覚は通奏低音のように、この千日間の生活の地下に張り巡らされていたものだ。
僕はようやく思い出した。
僕は別れるために、彩と恋人になったのだ。
彩だけじゃない。
静子とも。観里とも。
『住本くんは、私に対する無関心を徹底的に深めようとしている』
そうだ。観里はびっくりするほど、僕の態度を的確に言い当てていた。
今、この瞬間、僕は自分がどうして彼女たちと恋愛をしてきたのか、その理由を見出していた。
僕は──僕が、誰かを好きになれないことを確かめるために、恋人になってきた。
僕が彩と別れたのは、ついに自分がどこまでいっても彩のことを好きになることはないと確信を持てたからだ。だから、満を持して彼女に別れを告げた。
それは、裏を返せばこういうことになる。
──僕が、越川佐夜以外の誰かを好きになることはない、と確かめられたから。
全て逆だった。僕が僕自身の佐夜への愛情を確かめるために、彼女たちの気持ちを利用していたのだ。そして、僕はそれを貫くことができた。僕は彼女たちにどれだけの好意を向けられても、どれだけ楽しく過ごせたとしても、誰にも好意を抱かなかった。そして、僕は彼女たちを好きになれなければなれないほど安心することができた。越川佐夜に対する、これ以上もない愛情を持っていると実感できたからだ。
そう繋がった瞬間、心の中が晴れやかになった。今、起こっていることは、瓦解ではない。収斂なのだ。渦に巻き込まれたものが円を描きながら、その中心へと収まっていくように、正しく感情が収まっていくこと。それが、僕の精神に最も必要なことだったのだ。
「……さや、って、名前、訂正しなきゃ」
すべてを悟った僕は、言った。
「僕は君と別れることはしなかったのに」
「バカ言うわ」
彩は鼻で笑った。
「私は、音道彩だから。そこを曲げてまで、由浩と付き合い続ける道は選べない」
「……彩のそういうところ、尊敬する。本当に」
「……むかつくなぁ」
「また、飲みたいよ」
「ふん。気が向いたらいいよ」
きっと、そんな時は来ない、という予感をひた隠しにしながら、僕は一息に彩の手から、彩の血に塗れたガラス片を取った。それはルビーのように赤く透明に光り輝いていた。あまりに綺麗だったので、彩の中の、大切な何かを掠め取ったような気分になった。
「ごめん。本当に、ごめん」
僕は謝った。
「謝らないでよ」
そんな短い言葉の中でも、彩は強がりを守れなかった。カラン、とクリアなガラス片がテーブルの上に落ちる。彩は血に染まった手を抑えると苦しそうに泣き出した。まるで僕に殴られたような泣き方だった。
僕はその様子をただ、見守ることしかできなかった。僕がしでかしたことなのに、その姿をまるで僕自身のことのように見ていた。あの名も言葉も文化も歴史も知らない人々が登場していた、退屈なドキュメント映画を観るのと同じように。