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6 家の合間

「でも、もしかして、本当にそうだったのか?」

 静子から彩への恋愛的な経緯を辿りながら、僕の頭の隅ではそんな疑問が蟠っていた。

「僕と静子は、彩が原因で別れることになったのか?」

 何故なら、静子が僕に不信を抱いたきっかけが、彩からのメッセージ通知だったからだ。それを見た僕の表情に静子が疑いを抱くような感情が浮かんでいたのだろうか。嬉しそうにしたとか、やばいと隠すような素振りをしたとか──。

「違うよ」

 ふと、気がつくと僕は全く見知らぬ道を歩いていた。声の方を見ると隣に静子が歩いていて、凛と澄んだ面立ちで言った。

「私たち、びっくりするくらいうまくやってたと思うよ。まるで少女漫画の最終話が、ずっと続いてるみたいにね」

「それは……きっとそうだ。僕たちは、少女漫画の最終話よりも後の時空を手にしていた」

「でも、それだけじゃ、駄目だったんだね。私が子供だったばっかりに、何か、足取りを間違えて違う場所に入ってしまって……それで気が付いたら夜になってた」

 僕は相槌も反応もしないで、ただ、重苦しさに耐えていた。違う、僕が悪かったのだ。なのに、静子の口から、そんなことを言わせることに、途方もない恥を感じていた。それをツケだと思うか、罰だと思うかの境界線を往ったり来たりしていた。

 僕と静子が歩いていたのは、なんてこともない住宅街だった。進んでも、曲がっても、坂を上がっても下っても、一軒家やマンションやアパートが、まるで森の木々のようにどこまでも連なっている場所だ。僕の生家も今の住まいも、この並びのなかにひょっこりと現れておかしくない。

 僕たちは家々の前を通り過ぎる。高そうなクーペの停まった、小ぶりでおしゃれな家。だだっ広い芝生の庭の端っこに、シェットランド・シープドッグが伏せる古びた家。廃業した果樹園のように庭に枯れ木の乱立する木造の家。絵に描いたようにボロッちいアパート。電車の広告でよく見るようなファミリー向けの新しいマンション。そのひとつひとつに人が律儀に住んでいて、それぞれの時間を暮らしている。僕が「いつの頃からか」とぼかしていた二年九か月の間も、ずっと。そして、それは静子も同じだ。結局、僕たちに足りなかった想像力というのは、そういう類のものなのだろう。

「もし、今、この瞬間、何者でもないまっさらな、なんにでも染まれる存在になったとして」

 ふと、煙の白く立つように静子が言った。

「ここから見えるどこかの家に、『ただいま』って、正しい顔をして帰ってもいいよってなったら、このなんでもない住宅街も歩くのが楽しくなるよね」

「自由な家を選んで帰れるってこと? 落ち着かなさそうだけど」

「落ち着かないとか、居心地が悪いとか、そういうの全然なし。自由に家を選んで、出入りできる。それで、今日はどこの家に入ってみようかなって、選ぶの」

 確かに、あらゆるしがらみを抜きにして考えれば、住宅街は家の見本市のようなものだ。歩いても歩いても家が現れるのだから、想像が萎むことはない。

「でも、君の家は大きいから、大概の家は手狭に感じるんじゃ」

「そうだね。世界にある家の中で、うちより大きい家は1%もないから」

 静子はよくそうやって自分の家の大きさを誇ったし、実際に彼女の家は大きい。

「でも、肝心なのは家そのものじゃなくて、まっさらな、なんにでも染まれる存在、ってとこが重要なんだよね。きっと、私たちの関係も」

「僕たちの関係も……?」

「そう。私たちが暮らしてたのは、恋愛漫画の甘いところだけを切り出したような、素敵な家だった」

 僕らの恋愛は、晴々と愉しく完成されていて、邪魔者もなく、危うい意味で純粋だった。手すらつないだことがない。そんなことが可能なのか、と目をひん剥かれるが普通にできた。弱点があったとすれば、大きな変化に対してびっくりするくらい脆かったことだろう。

「高校時代はそれで良かったけど、卒業した後は環境が変わって無理が出てきた。お互いが知らない人と、知らない場所と生活するなんて、あの頃の私にはよく理解できなかったんだと思う。そんな感じで、私も住本くんもずっと同じところに住み続けていたから、家に亀裂ができて隙間風が入ってきちゃった」

「……もっと自由な存在だったら、他の家を引っ越せたのにってこと?」

「うん。なんだかそんな気がしない……? 私たちはあまりにも高校の時の恋愛に縛られてた。お互い新しいステージに行ったのなら、また新しい家を見つければよかったのにねって……まあ、今そんなことを思っても、何もかも手遅れ、なんだけど」

 困ったように静子は笑った。その表情に僕はいたく胸を締め付けられる。僕の記憶にある静子の笑顔はどれも、漫画の扉絵のようにキラキラとしたものだったから──。

 ふと、静子は足を止めて、ひとつの家をじっと見つめた。コンクリート造りで一台だけ車を停めるスペースがあるだけの、ごく一般的な分譲住宅。

「私……ここの家の人になれたら、良かったな……」

 僕も彼女に合わせて、立ち止まる。確かに、清潔感があって住み心地の良さそうではあったけど、他にも似たような外装の家がたくさん立ち並ぶ中で、その家だけを、わざわざ歩みを止めてまで選ぶ理由が見えなかった。

「……どうして?」

「わからないよ。なんとなくで選んだことの理由を、知ってちゃいけない気がする」

 何故か静子自身が困惑していた。いつもはこうじゃないのに、というような表情だった。僕は、それと似たようなことを聞いたことがあった。

『きっと、それをわかっては、いけない……』

 それは、観里が別れ際に言った台詞だった。わかってはいけない。知っていてはいけない。そんなことがこの世にあるのだろうか。そんな訝りがないでもなかったけど、彼女たちがそうと言っている以上、僕がその先へと踏み込むことはできない。

「……なんだか、私、ここにいちゃいけない気がする」

 自宅が火事になっていないかと案じるように、静子は言った。

「ここの家の人になりたいと思ってるのに……?」

「うん……いちゃいけないからこそ、なりたいと思ってしまうのかも……」

「この家は……何なんだ?」

「わからないよ……」

 静子は俯きがちに言った。その戸惑いは不安へと変わっていた。彼女の暗い表情を見るのは、「正史」の中で別れた時だけだった。見ているこちらの胸が締め付けられてしょうがないような美しい曇り顔だ。

 僕は見ていられなくなって、またその家の方に目を向けた。その壁の向こう側には誰かがいて、その生活に腐心していることがはっきりと感じられる。その前で立ち話をするのは落ち着かない。

「ごめん、私、行くね……」

 やがて、我慢できなくなったように静子は言って、逃げるように歩き出した。僕を切り捨てるような足取りに脚が動かず、その背中を追うことができなかった。もう二度と、静子と会うことはできない──そんな予感を覚えた時には、もうことは進んでしまっていた。

 足早に去る静子の姿が遠くの角に消えた時、その瞬間を見計らったかのように、ガチャリ、と鍵を解く音がして、その家の扉が開いた。家の中に誰かの気配を感じていたくせに、僕はそのことにひどく驚いて声をあげそうになった。

「……住本くん」

 そして、出てきた人物の顔を見て、絶句した。

「え……観里……?」

 この千日間の中でも、「正史」でも、別れを告げたはずの枝遊観里がよそいきの恰好で立っていた。もう二度と、会うことはないと思っていた彼女が、当然のように目の前に立っている事実に、僕はどうしてか圧倒されてしまった。

「ここ……観里の家なの?」

「……うん。実家、だけど」

 観里は見るからに戸惑っていた。この場面だけ悪意を以って切り抜けば、僕は未練がましいストーカー候補にしか見えない。

「いや、たまたま通りかかって……」

「……ふうん」

 僕の弁明に観里は淡白に応えた。動揺する僕に比べれば、観里は比較的、落ち着いているように見える。それでも、心の中で何を思っているかわからない。誤解を残したくない僕は訴えを続ける。

「君と別れたってことは納得してるし、そのことで恨んでるとかでは絶対にない。僕がここにいるのは、その、信じられないかも知れないけど偶然で……ただ、それだけなんだ」

「そう」

「本当だよ……怖がらせたなら、ごめん。すぐに、どこかに行くから」

「どこかって、どこに」

 観里は短く訊ねる。そう問われて、僕は初めて辺りを見回した。静子と歩いている間は気にしなかったけど、そこは一度も来たこともない、全く知らない場所だった。

「……君の目に入らない場所に」

 そうとしか言いようがない。観里は首を横に振った。

「住本くんひとりじゃ、どこにもいけないと思う……だから、途中まで一緒に行こう」

 そう言って、観里は僕の隣に立った。僕は呆然とした。

「何で……? 僕たち、別れたばかりなのに」

「別れても、会って、話しちゃいけないってことはないでしょう」

 僕はどういう感情でいればいいか、わからなかった。観里の態度はとても嬉しかったけれど、僕に喜ぶ権利があるのかわからなかったし、観里の言うことはわかるにしても、結局、僕の中では、別れた人と話すことに抵抗……というか、違和感があった。背徳感というのではなくて、理に反しているような、あってはいけないことをしているような気分だった。

「行こう」

 観里は、そんな僕に構わず、歩き出した。僕は慌てて、その後を追う。

 観里の家を離れて、再び住宅の森を進んでいく。どこまで行っても、新たな家が次々と現れる。世界の末端まで、この住宅の連なりは続いていくような気がしてくる。観里は、僕ひとりではどこにもいけない、と言ったが、確かにそうかも知れなかった。こうして歩いている以上、一応、現在地は絶えず変化している。ただ結局のところ、家々の前を転々と移動しているだけであって、それは僕が口にしたような「どこか」ではない。家の前の道まで含めて、誰かが住み、暮らしている場所だった。そう考えると、静子が言っていた「まっさらな、なんにでも染まれる存在」になれれば、どんなにいいかと思った。僕はとことん部外者だった。

「こんなに知らない家だらけだと、僕の居場所なんてないような気がしてくる」

 僕は言った。素朴な感想のつもりだっが少し気弱に響いた。観里はやや黙った後、なんてことのないように答えた。

「居場所がないなら、新しい家を作れば」

 マリー・アントワネット並の飛躍した台詞を、観里が口にするとは思わなくて、僕は一瞬、言葉を失った。

「贅沢だな……そんな家なんてないよ」

「それなら、何のために歩いてるの」

「何のため? ……何のため、だっけな」

 そもそも、最初は観里の前から立ち去るつもりだったはずが、なぜか一緒に行くことになっていたのだった。そして、行く先も問わずに、当然のような顔をして歩き続きている。まるで家の前で落ち合って、気まぐれに散歩するふたりのようで──と、そこまで考えて、僕は愕然とした。

 今、この瞬間がずっと続けばいい、と思っている自分に気がついてしまったのだ。

「……君と一緒に歩くため、かも知れない」

 そのことがショックで、僕はつい正直に言ってしまう。

「そうなんだ」

 観里は短く答えただけだった。

「やっぱり僕は君をまだ好きなのかな」

 僕は自分の感情に戸惑っていた。さっきは未練はないみたいなことを言ったばかりなのに。

「二年と九か月の重さを感じれば、わかる」

 観里は皮肉に言った。

「それでも僕は君の隣を歩きたいと思っている」

 僕は僕自身の情緒を弁護するように告げた。観里は物憂そうな表情をした。

「そんなことは……あってはならないのかも」

「……それは、僕たちが、別れてしまったから?」

「ううん、違う。住本くんがまだこの場所で暮らしているから」

 この場所?

 ふと、僕が足を止めると、そこには僕の今の住んでいるアパートがあった。

「僕の家……観里、それってどういう……観里?」

 気がつくと観里の姿は消えていた。辺りを見渡しても、あの揺らめくような立ち姿は見えない。僕は狐に化かされたような気持ちでしばらくその場に突っ立っていたが、そのうち肌寒くなってきたので家の中に戻った。

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