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5 恋愛「正史」

 夕方、観里と別れて家に帰った僕は、ソファの上で丸くなっていた佐夜に言った。

「観里と別れた」

「そう」

 佐夜は素っ気なく言った。それ以上の言葉はない。実際的に考えればそれが当たり前の反応のような気がした。他の恋人の話なんて。それでも僕は佐夜の隣に腰を下ろして、喋りかけるように独り言を続ける。

「いつの頃からか、こうだったと思ってきた。でも、それは嘘だった。実際には二年九か月、千日前から、こうだった。きっと、誰も覚えてないくらい途方もない昔から、ずっとこうだった、ということは、世の中にないんだ。実際にそれが始まった時期は確かにある、けど、それを知らないでいることで僕は責任を感じないで済む。ただ、観里にその期間を知らされてしまった以上、僕はそれだけの時間に責任を負わなくちゃいけなくなった」

「どうしてそれを私に言うの?」

「ごめん、独り言だ。どうしても考えを整理したくて……」

「そう」

 後頭部にずーんとした重さを感じて、僕は首を垂れる。彼女は責めているのではない。きっと佐夜は純粋な疑問を口にしただけだ。そして、僕は勝手に追い詰められている。

 考えを佐夜に聞かせて何になるのか。僕はその質問に対して、答えを持っていた。しかし、それを口にしてはいけない。それは佐夜に対する望みになってしまう。そうなってしまってはいけない。絶対に、いけない。そう念じ続けたが結局、駄目だった。僕は、観里と別れた、という事実の巨大さに圧倒されてしまっていたのだ。

 僕は胸の中にたまった高温の気体を吐き出すように、言った。

「いや、本当は君との別れを想像した。そしたらものすごく怖くて、これ以上考えたくなくて、誤魔化すために長々と喋った」

「そんなの……私に言う必要ないじゃん」

 佐夜はふてくされたように言って身をよじった。ごそごそ、と音が立つ。僕は痛切な思いと共にうなずいた。

「……わかってる」

「由浩の感情は由浩がどうにかするしかないよ」

「それも……わかってる」

 僕はうめいた。千日という期間が終わり、観里という裂け目が現れ、折りたたまれた恋愛歴は少しずつ開かれていく──そんな予感がする。そうなった時、僕は一体、どうなってしまうのだろうか。そんな不安に押し潰されそうになっていた。

 ふと、敗者のようにソファに座り込む僕の手に佐夜がそっと触れた。僕は優しく握り返す。呼応するように彼女の手に力がこもる。僕がこれから辿る運命を慰めるように。僕はしばらくその温もりの応酬に身をゆだねていた。


 恋愛歴、と言うからには、「正史」とも表すべき、僕が実際に体験した恋愛の遍歴というものはある。それはこの千日間に折りたたまれた経験とは全く別の、火遊びのように危うく、目を覆いたくなるほど人間として拙かった僕の刻みつけた歴史だ。

『住本? ムリムリ、アイツチャラすぎ』

 放課後の廊下を歩いていた高校生の僕は、そんな声を聞いて足を止めた。教室の中で、女子たちが僕の噂話をしているところだった。

『チャラいっていうか、アイツは女大好きなんだよ』

『アタシもそう思うなー。でも、付き合い始めたら一途な奴ってパターンな気がする』

『はー、あれだ。捨て猫助ける不良。露骨なポイント稼ぎ。ズルいわ』

『なに? 僕の話?』

 僕が会話に入っていくと、女子たちは揃って、ウエーッ、マジかよコイツ! という顔をして、顔を見合わせた。どうする、この先の展開。本人登場は考えてなかった。そんな雰囲気。

『ううん、クラスの男のコの話~』

 そんな空気のところへ助け舟を出すように、ひとりの女の子がちょっとずれたことを言った。それが内古閑静子だった。その発言のおかげで僕への陰口はうやむやになったが、すぐ隣にいた子が、姫! 口をきいてはなりませぬ! という風に目をひん剥いたのを覚えている。

『ふうん、で、誰と付き合いたいかって感じ?』

 今にして思えば当時の僕は無敵だった。恥も外聞も痛みもない悲しきモンスターだった。あまりに無敵過ぎて、楽しい女子トークの場を政治ゲームの社交場に変えてしまった。

 でも無謀さに関して言えば、静子も負けてはいなかった。彼女は恥じらいを隠すように、うっすらと目を逸らしながら、さっきよりも少し小さな声で言った。

『うん……まあ、そうだね』

 いける。僕はその表情を見て、確信した。

 それから何回か遊びに誘ったりして交友を深めた後に、僕は内古閑静子に告白した。一緒に日直の仕事をこなして、ようやく終わりだね、とほっと一息ついたタイミングで、僕は切り出した。彼女はすごく驚いた顔をした後、視線をあちこちさまよわせてから、「うん、私も……住本くんのこと、好きです……」と言った。

 下馬評通り、僕はチャラいと思わせておいて、この人だと決めたら最後、一途な奴だった。しかし、たくさんの異性がいる中で誰かひとり、一途になれるような子を選び取るには、どうしても接触の機会を増やさなくてはならない。チャラいというレッテルは一途になるための一時的な副作用で、静子と付き合い始めた後はぱったりと耳にしなくなる。

 それくらい、僕と静子は理想的な高校生カップルとして過ごした。喧嘩もしなかった。静子は高嶺の花のような扱いだったので、誰もが僕らの関係を羨み、喜び、妬んだりした。そして、僕と静子はそんなことに関係なく、思い付く限り、一緒にしたいと思うことをやった。

 そのまま、僕たちは高校を卒業して大学に進学した。静子は家の方針で女子大に入り、僕は都内の私大の経済学部に進学した。

 その演習のクラスで僕は音道彩と出会った。文学部から転部してきたらしく、必修単位取得のために在籍しているという。なので一歳年上だった。彩は金髪ツインテールというイケイケな見た通り活動的で、クラスの中心的な存在となって、教授に代わって発表を回したり、飲み会や合宿の幹事を積極的に執り行ってくれた。

『え? ツインテ、目立つからいいでしょ』

 髪型の理由を聞いたのも、その飲み会の時が最初で、最後だった。

 僕は自分を一途な奴だと言ったが、それは悪い意味で、他の人に対しては平等に接することを意味する。僕は信じられないくらい手広く、大学での人間関係に浸っていた。

 信じられないくらい、というのは、静子にとって、ということだ。僕の通う大学には当然のように男女がいて、例えばトークグループに入れば必ず女の子がいる。でも、女子大学にいた静子の交流の範囲は同年代の女子のほかは片手で収まる程度のものでしかない。

『それ……女の子?』

 だから、静子は僕のスマホの通知に出た『音道彩』という名前を見て、一言、そう呟いた。息を吸いながら発したような掠れた声だった。僕が彼女の知らない異性と交流する可能性をあんまり考えていなかったのだ。静子はそういう箱入り娘だった。

『うん、そう。同じ講義取ってて』

 でも僕も、静子と同じくらい想像力がなかったので、何のフォローもなくあっさりとうなずいてしまったのだ。

『浮気……してないよね』

 静子は真剣な顔をして言った。彼女の気持ちを汲み取る能力のなかった僕は笑った。

『してないって』

 しかし、彼女はそれ以来、かなり思い悩んでしまったようだ。高校や大学の友達、もちろんみんな女子だが、片っ端から捕まえて相談したらしい。

『住本くんのことを疑いたいわけじゃないの……でも、みんな、きっと浮気してるって……別れた方がいいって……』

 やがて静子は泣きながら、僕に別れ話を持ち出した。僕は呆気に取られるばかりだった。そして、イノセントな彼女に想像上のゴシップを植え付けた静子の友人たちに憎しみを覚えた。

『そういうこと言う奴と、僕と、どっちを信じるんだよ』

『どっち、なんて……ひどいこと言わないで……私、もうこんなの嫌だ……』

 一見すると、かなり突飛で不毛なやり取りだが、もっと他に細々とした無数のやり取りの積み重ねがあった。ただ、別れる直前の男女の対話なんて醜いものだし、僕自身、すぐに記憶からはじき出してしまった。

 そうして僕と内古閑静子は別れた。順風満帆な恋愛生活を過ごしていた僕にとって、その事件は想定外のことだった。

 だから、その三日後に音道彩と付き合い始めた。


『はぁ。元カノと別れてすぐ私と付き合ったの』

 その事実を知った時、彩は心底面白そうに笑った。彩は面倒見がいいと同時に、他人の不幸をオモチャにして遊べるタイプの人間だった。それを知ったのは付き合い始めてからだった。静子とのお行儀のよい付き合いを通ってきた僕にとっては衝撃的なことだった。

『目立つんだよ、彩は』

 僕は彩とどこかの公園で近所で買った酒を飲んでいて、だいぶ酔っていた。同時に泣いていたのかも知れない。僕が声を上ずらせると、彩はあははー、と笑った。僕はそんな彼女を黙らせようと思って、何かぶつけられる言葉を探す。

『キャンパスでそのツインテを見つけると安心するんだ』

『それで私が好きになったの』

『フラれた時、ぱっと浮かんだのがそれだった』

『うれしーねえ。でもさ、自慢じゃないけど、私を見る人なんてたくさんいるよ。アホほど言い寄られる。それでも、尻込みしなかったわけ?』

『そんなこと知りようがないし。でも、やっぱモテるんだ』

 僕はそのことを知ってたいそう満足した。僕はまた、人気のある女の子と付き合うことができるぞ、と卑しい悦びを覚えた。彩は、僕のそんな単純にほどがある心中を見透かすように、大きなため息を吐いた。

『バカだなあ』

 そう慈しむように言って、突然ぐいっと顔を寄せてきた。彩の目が近くに来て、いい匂いがふわっと漂った。

 このままではキスされる。

 僕は咄嗟にそれを回避するように身をよじった。

『は?』

 彩はわけがわからない、というような顔をした。スマホの画面を覗いたら、とんでもないサイトを開いているのを目撃してしまったような表情だった。。

『いや、完璧にする流れだったよね』

『……恥ずかしいんだよ』

『え? キス程度で恥じらうって何? ずっと思春期なの? 元カノいたんでしょ?』

『前の恋人とは、手までしか繋いでない』

『マジ? すご、肝いりじゃん』

 彩の嘲るような態度へ抗議するように、僕は徹底的に黙った。そんな様子を見て彩は自身の欲もひっこめたようだった。それきり、僕に触れようとすることはなかった。結果として、彼女との終わりがくるまで、ずっと。

『なんでそんなプラトニックなことができたの?』

 彩は興味津々で訊いてきた。僕はイライラしながら答える。

『何で、とかある? そういうタイプの付き合いだったってだけ』

『ふーん。じゃあ、別にその相手のこと、そこまで好きじゃなかったんだ』

 彩はそういう評価をするタイプの文化圏で育った人間だった。その物言いに僕は、自分の顔がカッと熱くなるのを感じた。

『なんでそうなるんだよ』

 声を荒げても、彩は面白そうに口端をつり上げるばかり。

『……怒ったね。本当のこと、言われたから』

 彼女はこうやって、誰かの本音を探り当てることに、少なからぬ快感を覚える人間だった。僕はそのことを知っていたから、息を大きく吐いて冷静さを取り戻そうと試みる。

『いや、怒ってない』

 彩はどこまでも面白がるように、きゃっきゃと口の奥で甲高く笑う。

『怒った人は怒ってないって言うもんだよ』

『怒ったように見えたのなら、そのふざけた態度に対してだから……僕はちゃんと彼女が好きだったよ』

『そうだとしたら、私の立場が問題になるんだけど』

 立場? ピンと来ない僕に、彩は「つまり……」と怪しい呂律で言うと、指を虚空に向けてピンと伸ばす。

『由浩は、前の彼女のことが好きだった』

『うん』

『だけど、私が原因で別れた。正確に言えば、このツインテールが目立つせいで、別れた』

『はあ? 何言ってんの……違うからね』

『いや、ってことになるよ?』

『決定的に違う』

『ふふ、言葉が強くなった。まぁ、どっちでもいいよ。由浩と話してると、しょうもない話でも楽しい』

 そう言って彩は笑みを浮かべた。その甘い表情を目にした僕は、彼女からの確かな奥行きのある好意を感じた。利害や好悪を一足飛びにして到来する、あのなんとも言えない離れられない感じだ。どれだけ性格悪く、しょうもないことを嘯いたところで、そういう裏道のような通路が彼女から僕の元へと通じていることを悟ったのだった。

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