4 恋と反対の無関心
観里からの別れを告げるメッセージ、それは逆に言えば、元恋人としての最初で最後の「会いましょう」という連絡だと取ることもできる。これが理屈なのか、屁理屈なのかわからないが、僕はポジティブにそう解釈することにして、彼女と実際に会って話し合う機会をセッティングすることができた。
別れ話を受け取った次の休日、僕は半蔵門駅に降りた。そこは僕の職場の最寄り駅で、なんとも複雑な気分だったが、彼女の指定なので仕方がない。観里は休日のオフィス街を、人が少ないからといって好んでいた。
「住本くん」
観里は待ち合わせ時間に十五分遅れてきた。特に悪いとも思っていない澄ました顔をしているので、そういうものなのかと納得させられるような空気になる。ただ、その平らかな面の裏では、何を言われるか、責められはしないかと、戦々恐々としているはずだ。観里はそういう子だった。
「やあ、観里……」
「……」
なので、明るく声をかける。観里はこくん、と頷くだけだった。それきり、会話が止まる。まるで共通の友人が席を外した時の、友人の友人同士みたいな気まずさだった。
二年九か月ぶりに会った観里は、頭に思い浮かべたのと全く変わりない容姿をしていた。飾り気のないジーンズに、季節感のない黒い長袖のTシャツと、それとなくつけているアクセサリー。パーフェクトな彼女らしさ。
立ち話もなんだし、という雰囲気から、近くのチェーンのカフェに入った。そこくらいしか開いていなかった。僕たちは真っ黒なブレンドコーヒーをそれぞれ携えて、木製の椅子に机を挟んで座った。
「それで……その、観里が送ってきた話だけど」
「……ごめんなさい」
観里は無表情に言った。僕は首を振る。
「謝らないで。悪いのは僕だから」
「いいえ。悪いのは私……私がもっと普通なら、住本くんも、普通に接してくれたはずなのに」
観里は“普通”に拘る。概して、こういうタイプの人の思い浮かべる普通は、「理想」と言い換えてもいい。魚が水を泳ぐように、鳥が空を翔けるように、彼女は潤滑油の効いた歯車のように、人々の間で呼吸することを「普通」と呼ぶ。
「私が普通でないばっかりに、と携帯の前で、うずくまる毎日でした。あまりの苦しさに、身体が動かなくなって、息もできなくなって、日常生活もままならなくなってしまい……私なんかじゃ、永遠にあなたを満たすことのできない苦しさを、これ以上、続けることができなくなってしまいました。でも、住本くんは優しいから、住本くんの方から、私との関係を切ることなんてしない。だから……私から、打ち明けるしか、ないと思って……」
「……二年と九か月も、耐えてきたの」
僕は他人事のように同情していた。観里を苦しめていたのは他ならない自分だというのに。この種の感情移入の気持ちよさは、虐待する者の心理に近いものがある気がした。
「……そう、ちょうど、千日。その日が限界、だった……」
観里は振り絞るように言う。千日。その響きに、僕は聞き覚えがあるような気がしてしまった。いや、これはでたらめな既視感に過ぎない。千日は、彼女が経験した時間でしかない。
「ごめん、僕も、その間、少し忙しくて……観里のことを忘れてたり、好きじゃなくなったりしてたわけじゃないんだ」
僕は誠意を込めて、告げる。大嘘ではない。事実ではある。僕と観里はこの生活では恋人同士だし、意識の隅にはいつも彼女の面影があった。ただ、シチュエーションとのお折り合いが悪かっただけだ。
「僕は……君を苦しめたかも知れないけど、君との関係を続けていたい」
そう縋るように告げる僕の言葉も、本心だった。もちろん、ここにある信じられないくらいの軽薄さについての自覚もある。
だって、千日もの間だぞ。その間、毎日佐夜と夜を過ごし、静子とは数えきれないほどの場所を巡り、彩の世界観をたくさん聞いてきた。そこに、観里との思い出はない。そこにあるのは、空白ですらない。僕が観里のことを忘れてたり、好きじゃなくなったりしてたわけじゃない、と傍証するものは何もなく、そして、千日という膨大な時間が、そのグロテスクさに拍車をかけていた。
それなのに、僕は、千日という時間の長さを無視して、たかだか一か月の連絡を怠っただけ、というようなセリフを言っていた。
『現状維持だよ』
佐夜の与えてくれた助言に、忠実に従うように。
「……住本くんは、どういう気持ちでそう言っているの?」
そんな僕に対して、観里は相変わらず、人形のように平素な表情で訊ねてきた。ただ、その言葉はこれまでの調子とは違っていた。どういう気持ちでそう言っている? 口調は相変わらずなのに、その質問に攻撃性を感じてしまい、僕はひるんでしまった。
「どういう気持ちって……?」
「今の、住本くんの気持ちが知りたい。私は」
「……今、言った通りのことだよ。本心なんだ」
「ううん。それはきっと、私とは別のところにある理屈に従っているだけ。住本くんの本心はもっと深い深いところにある」
「な、何を言ってるんだ……?」
まるで佐夜のアドバイスにならっていたことを見抜かれたようで僕は動揺してしまう。
「こう言ったらわかる?」
観里は「眼」と表現するにふさわしいその眼で、僕を見て、言った。
「住本くんは私に対する無関心を徹底的に深めようとしている」
僕には、彼女の言っていることが理解ができなかった。
「そんなわけないだろ。こんなに君のことを考えてるのに……」
「それならどうして、私と連絡を取ってくれなかったの」
「……誠実じゃない気がしたからだよ」
「誠実って?」
「それは──」
素直に問い返されて僕は言葉に詰まってしまった。僕には複数の恋人がいるけど、観里には僕しかいない。彼女の方が倫理的には普通の在り方なんだ、と今更になって気がついたのだ。
そんな想像力を持たずに僕は、僕が欲望のままに女の子を選ぶクズ野郎になりたくないという僕の都合で彼女と連絡をとらなかった。僕からの連絡を待つ観里からすればこんなに不誠実なことはないし、それを誠実だと思い込んできた自分の愚かさに絶句してしまう。
僕は──観里の言うとおり、彼女に対して無関心を深めようとしてたのだろうか。
「……本当に僕が誠実だったなら、他の恋人たちを全員振って君だけと付き合うべきだったんだ」
懺悔するように僕は言った。なんて普通のことを、と思う。最初からそうしていろよ、とも。だけど、死ぬほど浅ましいことに僕は心の中で、それは嫌だと思っていた。僕は自分のことをどうしようもない不誠実な奴だと認めつつ、この恋愛歴にたゆたう生活を続けていたかったのだ。それが僕の本心だった。
だから、君だけと付き合うべきだった、という後悔の台詞は単に観里の心を繋ぎ止めるための方便に過ぎないことになる。それでも良かった。僕は現状維持を望んでいた。
僕はバクバクという自分の心臓の音を聞きながら、観里の返事を待った。
観里は少し考えるように押し黙ると、やがて静かに首を振った。
「それはわからない」
「え?」
わからない? 僕が観里だけと付き合うべきか、観里自身がわからないって?
「どうして? だって、だから君は僕と別れるって言ったんじゃ……」
「そう、だけど、住本くんが誰かひとりだけと付き合わなかったのは、住本くんにとって今の状況が必要だったからだと思うの」
「僕が、今の状況を必要としていた……?」
今まで付き合った恋人たちと同時に付き合うという時空間を? 僕はますますわからなくなる。
「……それなら僕は君と別れないためにどうすれば良かったんだ」
混乱して嘆く僕に、観里は奥の歯だけをそっと噛み締めるように、言った。
「どうしようもなかった。何がどうあっても、千日目の今日、私は耐えきれなくなるようになっていたんだと思う」
その、もう全てが終わったような響きに僕は震えた。
「どうしてなんだ……僕は、一体、何を求められているんだ。僕はこれから、どうしていけばいいんだ」
「わからない。きっと、それをわかっては、いけない……」
その「わからない」という言葉には、どう考えても飛び越せないほど広く、あまりにも深すぎる溝があるように感じた。何をどうすることもできなくて、それきり深い沈黙が降りた。その沈黙の間、僕は必死に頭を巡らせた。『現状維持だよ』と言う、佐夜の声がぐるぐると頭を巡っていたが──やがて、ふ、と、灯りが落ちたように消えてしまった。
結局、その提言は実現できないようだった。ごめんな、と僕は心の隅の方で呟いた。
「……もう、どうしようもないんだ」
僕は言った。観里はうなずいた。
「うん。決定的に」
「……終わり、か」
僕がそう告げると同時に、向かいに座る観里の頬につーっと涙が伝った。その小さく光るものを見た時、僕の心に深い後悔が訪れた。僕が本当に嫌だったのは、彼女と別れることではなくて、彼女の涙を目にすることだったのかも知れない。