3 最後の恋人
「もう、帰ってるよ」
そう言われて僕は目を開いた。僕の覚醒に合わせて静けさが動き出す。そこは僕の家だった。僕はソファに座っていて、佐夜がベッドで横になって顔だけをこちらに向けている。その姿を見て僕は信じられないほどの安寧を感じた。死ぬほど酔っていたはずなのに気分の悪さは一ミリも残っていなかった。
「佐夜」
何はなくとも、僕はそう呼んだ。
「うん」
佐夜は枕の上から僕に視線だけを向けていた。その眼差しが、僕の途方もない安堵の理由なのだと知った。
ようやく人心地が着いた気がして、深く息を吐いた僕に佐夜は言う。
「スマホ、鬼のように鳴ってるけど」
「え」
全く心当たりがなくて僕はポケットに手を突っ込んだが、ない。
「そこ、足元の、そこ……」
佐夜は眠いのか口だけで場所を指示する。足元を見ると確かにスマホが落ちていて、現在進行形でバイブレーションして動いていた。振動によるパワーで、ポケットから脱走したらしい。まるで深海の底で蠢く生き物のようで、僕はこの電子機器を初めて気持ち悪いと思った。
難なく捕まえて確認すると、ロック画面には無数のメッセージ通知が表示された。故障かスパムかを疑うレベルの量だった。その送り主は、音道彩でも、内古閑静子でも、もちろん越川佐夜でもない。
「……枝遊観里」
知っている名前だった。僕の折りたたまれた恋愛歴の生活の中に登場する、最後のひとり。今日、会うことのなかった恋人だった。
僕は観里の顔を思い出す。陶磁器のように綺麗な肌、高級な墨で塗ったような長い黒髪と、「眼」という漢字の方が似合う切れ長の眼、色の薄く控えめな唇で、灰色に着色したガラスの向こう側にいるような表情を浮かべている。低気圧が似合う女の子。僕は彼女の口からポジティブな言葉を聞いたことがないような気がする。天気がいいとか、なにがおいしいとか、そういう些細なことでさえも。僕は彼女との会話の中心が何だったのか、思い出すことができなかった。
そんな、静子や彩と違った性格の観里が、たった一晩の間にスマホが生き物と思えるくらい移動するほどのメッセージを送って来ていた。目の前で起こっている揺るぎない事実のはずなのに全くピンとこない。そして、実際、メッセージの量は莫大だったけど、内容については一秒で把握できるものだった。
『別れてください』
僕は投げるようにテーブルの上にスマホを置いた。思ったよりも硬く強い音が鳴った。佐夜は反応せず掛布団の下からじっと見ていた。
「画面が割れる」
「……割れても保護ガラスだけだよ」
そのやり取りを踏み台にして、僕はもう一度、観里から届いたメッセージを見る気力を取り戻した。スマホを持ち上げて、画面をつける。あれほどあった通知はごっそりと消えていた。さっきの衝撃で霧散してしまったのかも知れない。今となってはどうでもいいことだった。
観里からのメッセージは要点がまとまっていた。
『別れてください』
『私はあなたにふさわしくないので』
『その根拠は、二年九か月の間、あなたが私に連絡をくれなかったことです』
「二年九か月……?」
僕は、その具体的な時間の長さを見て、世界が遠のいていくような感覚に襲われた。僕の皮膚を境目として、その他の全てがホワイトアウトしていく。
いつの頃からか、こうだった──僕の中の恋愛歴が折りたたまれているこの生活は、そうとしか表現できない感触の中からスタートしていたものだった。誕生した年月日がわかっても、いつ「ボク」として物心がついたのか、わからないのと同じように。
だが、観里ははっきりと書いていた。二年九か月、あなたは連絡をくれなかった、と。
猛烈に気分が悪くなった。思い出したように二日酔いが襲って来たのか。僕は突然重くなった頭を支えるように手で額を抑えた。
枝遊観里……僕の折りたたまれた恋愛歴の生活の中に登場する、最後のひとり。
そして、この折りたたまれた恋愛歴としての生活の中で、僕は、彼女に一度も連絡をしたことがなかった。
いや、違う。僕は、この生活の中で、誰一人として、僕の方から自発的に連絡をした人物はいない。佐夜は一緒に暮らしているし、静子は面白いことをしようと誘いをくれて、彩はサブカル的な尖ったものを見せようと誘いをかけてくる。僕はそれに応える。なぜなら、付き合っているからだ。この時空では恋人だからだ。
そして、僕の方からは連絡をしない。それがルールだと思い込んでいたが、或いは、気分で彼女たちを使い分けるような気分になるのが嫌だからかも知れない。今日は楽しく過ごしたいから静子を選ぼう。今日は退屈に浸りたいから彩と過ごそうなんて、少なくとも、僕の中ではひどく失礼な思考のように感じた。それなら複数の恋人がいる現状が不貞じゃないか、ということになるかも知れないがそれはまた違う。僕は望んでこうなったわけじゃないし、大前提として彼女たちはみんな、「元恋人」だ。その意識がある限り、単純に欲望を満たすための時空間となることはありえなかった。
観里の話に戻ると、彼女は引っ込み思案な方で、決して彼女の方から連絡を寄越すことはない。もしかしたら付き合っていた当時は違ったのかもしれないけど──いや、今はそんなことどうでもいい。僕が考えるべきことは、「いつの頃からか、こうだった」と思える、この折りたたまれた恋愛歴のことだ。
折りたたまれた恋愛歴の中で僕から連絡をとった子はいない。観里の方から連絡もしてこない。そして、観里ははっきりと書いてしまっている。僕たちが連絡を取り合わなかった期間が二年九か月であることを。
折りたたまれた恋愛歴の中を、僕は二年九か月、暮らしてきた。
その具体的な期間を突き付けられて、僕は信じられないくらい動揺していた。会社で深刻なミスをして他社との取引が止まってしまった時でも、こんなに震えなかった。いつの頃からか……と曖昧な表現で蓋をしてきた時間をそのまま、喉元に突き付けられ、締め上げられているようだった。
「大丈夫……」
心配そうな声がして顔をあげると、いつの間にか隣に佐夜が座っていて、僕の手を控えめに触ってくれていた。
「二年九か月だ……」
僕は許しを請うように言った。佐夜はかすかに首をかしげる。
「何が?」
「僕たちが、一緒に暮らしていた時間」
「……そんなにいたんだ」
感慨深そうに佐夜は言う。あと三か月でこの学校も卒業だね、というような風情が、その相槌の背後に凝っていた。僕はわけもわからず泣きそうになった。
「観里が別れたいって」
「そう」
佐夜はいつもの調子で受け止める。その声があまりにも透きとおっていたおかげで、僕は自分の気持ちを吐き出すことができたのかも知れない。
「観里は僕が、最後に付き合った人だ」
「うん」
「観里のことを忘れてたわけじゃない。でも、この生活で自分に課したルールから、僕は彼女と連絡を取れなかった。ただ、それだけなんだ」
「わかるよ。それで?」
「その彼女から連絡が来た。別れようって。なんだか、彼女のその意思を受け入れた瞬間に、遠からずこの生活は瓦解してしまうんじゃないかって、そんな気がしてるんだ」
「そうかもね。それで由浩はどうするの」
「わからない。僕はどうするべきだと思う?」
なんて情けないことを、と思いながら、しかし、こう返すことしかできなかった。それでも、佐夜は真剣に僕を見つめて、答えてくれた。
「由浩はもう大人なんだよ。大学生とか、高校生とか、中学生じゃない」
「うん。わかってる」
「大人が進むべき道に迷った時に、取るべき選択はただひとつ」
ぴっと一本指を立てて、佐夜は本当に、生真面目に、僕に道を示したのだった。
「現状維持だよ」