2 退屈なドキュメンタリー
「今日は楽しかったよー! それじゃあ、また今度ねぇ」
「ああ。また来週、どこか行こう」
「うん! ばいばい!」
午後一八時、ふいふいふいふい、と手を振る静子と、駅前で別れた。夕飯すら食べていかない時間感覚は、高校生のそれを未だに引きずっているようだった。いや、一般の高校生の恋人同士がどれくらいの時間に解散するのか知らないけど、少なくとも僕達の感覚では一八時がリミットだったのだ。
僕は充実感と共に電車に乗り込み、今度は新宿方面へと向かう。椅子が空いたので腰かけ、スマホを取り出すと別の恋人からのメッセージを見る。
『良い映画、入ったって。いっしょに観よ』
僕はそれにOKをした。それが六時間前、佐夜と一緒に出前ラーメンを食べている時のことだった。佐夜の隣にいながら別の元恋人とのデートの誘いに乗ったのだ。そして、そのことを佐夜自身を知っていながら、僕を好いてくれている。こうして事実を書くと女性関係に何の秩序も持たないような男だと思われそうだが、当然、こんな空間で生活する前からこんなことをしていたわけではない。
三十分後、僕は南新宿の外れにある、小さな雑居ビルの前に立っていた。そこが彼女から指定された場所だったが、チケット売り場も上映している映画の一覧もない。映画なんてやってる雰囲気は皆無だった。来るところを間違えたかと、地図アプリで住所と現在地を間違い探しのように見比べていると、近くの喫煙所から金髪のツインテール女が出てきた。
「あ、由浩」
その姿を見て、僕はたいそう安心した。
「彩! あー、良かった、ここでよかったんだ……」
「うん。あれ、住所送らなかったっけ?」
「映画観るっつって、こんな路地裏の場所貼られたら戸惑うって」
「私がバルト9のURL貼ってたらもっと驚いたでしょ」
「驚くけどそっちのがわかりやすくていい」
音道彩は、あははー、と特徴的に笑った。その拍子に、ふたつに結わえた髪が揺れる。彼女とは大学で出会ったのだが、その時からすでにツインテールだった。聞けば、幼稚園の頃から一貫してそうしているらしい。理由は見つけやすいから。そして、他の髪型のやり方を知らないから。
彩のあとについて雑居ビルに入り、狭い階段を下っていく。途中の壁には、ベタベタとケミカルなフライヤーが貼ってあって、案の定、階段の先には小さなライブハウスがあった。「絶対に閉めて!」と書かれた開きっぱなしのドアを通り過ぎると、こじんまりとした空間にそこそこ大きなテレビが置いてあって、その前に椅子が数脚並んでいた。
「スクリーンじゃないんだ」
僕は呆気に取られて言った。
「液晶だっていいでしょ。あ、二千円ね」
「え、しかも、相場で金取るの?」
「レアなフィルムなんだって。ほんとは三千円するんだから」
「それだけの価値があるの?」
「価値なんかどうでもいいでしょ」
彩はどちらかというと貧乏な方だけどそういう気質だった。
当然のように、客は僕らふたりしかいなくて、上映は始まった。僕より若そうな店員がパチッと電気を消して、MacBookで再生ボタンを押しただけなので雰囲気もクソもなかったけど。
映画の内容はというと、何年か何十年か前、紛争下にあるどこかの国に暮らす人々の映像だった。ドキュメンタリー風の──というか、映画として撮ることを意図されたような映像ではなく、ホームビデオに近い。「パラノーマルアクティビティ」的な意図されたモキュメンタリー作品かと思えば、そういうわけでもなさそう。僕は、信じられないくらい淡々と、そこに暮らす名も知らぬ人々が全くわからない言語で(日本語字幕はあるので内容はわかるけど意味がわからない)、名も知らぬ料理を食べながら、政治の話をしたり、家族の話をしたり、不思議な歌を歌ったりするのを、ただ見ていた。
エンターテイメント的な映画を観慣れている僕からすればこんなのそもそも映画じゃない、と感じてしまう。でも、作り手が映画という意図を持って編集し、発表して、僕らが映画だと思って観てしまえば、これは映画ではないと拒むことはできない。「映画じゃない」と断じる責任を負う勇気が僕にはなかった。それは、この映画に登場する人が、実際に生きて喋って食べて歌っていた、という事実を目撃してしまったからだろう。太宰治も「いやになってしまった活動写真を、おしまいまで、見ている勇気」と言っている。僕はどちらかというと、勇気というよりも責任に近いものを感じていた。
太宰治がここで言っている「活動写真」とは人生の隠喩だけど、この、僕が今まで付き合ってきた恋人たちと同時に恋愛しているという折りたたまれた生活も、ある意味で映画的なドキュメンタリーと言えるかも知れない。だとしたら、何らかの意図があってもいいはずだった。何のためにこんな生活を? ただ、いつの頃からか、知らぬ間に始まっていることを問い直すのには、それこそ勇気がいる。それは、何のために生きている? と問うのと変わらない。
気が付けば、僕はこの、名も言葉も文化も歴史も知らない人々のドキュメント映画の中に、他でもない自分自身を見つめていたのだった。ここにいる人々は「僕」だ。そんな、ちょっと危ない浮遊感の中を漂っていた。
やがて、映画は何の前触れもなく終了した。四十分くらいの映像だった。スタッフロールも何もない。何もかもが無名だった。尖ってるな、と思った。映画自体が、というよりもこんな映画を恋人とデートとして観に来た彩のことを。
「退屈だったね」
開口一番に彩は言った。
「うん、退屈だった」
「ふふ、良かった」
皮肉でなく心底嬉しそうに言うのだからこの彩という子は凄かった。
僕と彩はそれきり、感想を言い合うこともなく、ライブハウスを出て夜の新宿を歩いた。
「どんな映画も、終わりの先が大事なのよね」
彩は僕に限界まで引っ付いて歩きながら、ふと、思い付いたように言った。揺れるツインテールから、名も知らない花の匂いが香った。
「終わりの先、ね」
「うん。ハッピーエンドでも、バッドエンドでも、そうでなくても」
「めでたしめでたしの後、どうなったかってこと?」
「そう。ほら、洋画だと無事に主人公とヒロインが結ばれて、キスしてエンドロールが流れたとしても、続編とかで離婚してたりするでしょ。ああいうのが、良いの。終わりと始まりの間を埋められるから。「2」とか「3」の、序盤でうまくいかなくなってる人たちを見るのが、一番映画を観てるって感じがする」
「なんていうか、性格悪いな」
「私の性格の悪さなんてずっと前から知ってるでしょ。……でもさ、そうやって生まれた障害は乗り越えられて、また次のエンディングに向かってしまう。新しい結末があって、めでたしめでたし……ってなって、気分よくさせられて映画館から追い出される。だから、私、普通の映画って苦手」
共感性がなさ過ぎて逆に面白い。僕は彩のそういうところが気に入っていた。
「それで、今日観たような映画が好みなんだって話?」
「ううん。別に。退屈だったでしょ」
「確かに退屈だったよ」
「でも、そこにはリアルがあった」
「ドキュメントだからね」
「私、そういうリアルにしか満足できなくなってるのかも知れない。他のフィクションなんて、全部全部ぜーんぶ、大嘘に見えてきちゃう」
僕はいつの間にか目の前にあったハイボールを飲み干した。僕たちは映画の終わった後の話をしているうちに、酒が飲める店に入っていたのだった。
「それくらい、彩が現実に感じる感受性が強すぎるって話だろ」
知らぬ間に酒の入っていた僕は饒舌に言った。
「だから、そうやって色んなフィクションを嘘! って言うことで自分の感じてる現実を守ってるんだ」
「えへへへ、そうだよ。わかってるじゃん」
彩は満足そうに僕の頭をぽんぽんと叩いた。その感触に僕は佐夜の細っこい手のことを思い出した。
ふと、僕が動かした腕が何かに当たる。見ると、空のショットグラスの塔が傾いでいた。
「飲みすぎだろ」
呆れながら言うと、彩はツインテールを解きながら首を傾げた。店のライトにあてられた金色が輝く。
「由浩が飲んだんでしょ」
「え?」
言われた瞬間、アルコールの供給弁がパカッと開いたように、脳がぐわんと揺れた。意識が飛ぶほどの気持ちよさの後、洪水のような気持ち悪さを叩きつけられる。最低の酔い方だった。地面に対して縦でいることが辛すぎて、何も考えずに横になった。すると、椅子もテーブルも彩も、視界に入る全てのものが大きく見えた。
「何やってんの」
優しく語りかけられる。意識に関して言えば、「揺れている」以外の何ものも感知していなかった。吹雪の中をさまよっているようだった。僕は彼女の名を呼んだ。
「……さよ……」
「私は、さや、よ。一文字違い」
彩は甘い声で訂正する。彩と書いて「さや」。「あや」と人生で千回以上読み間違えられてきた彼女は、僕が「さよ」と違う子の名前で呼ぶのを喜ぶ。僕しかしない間違えだからだ。
「……そうだった」
「髪解くとすぐこれだ。それ、元カノの名前?」
「……よく、知ってるな」
「忘れなよ。その子の名前」
楽しそうに彩は言った。最悪の気分が額の辺りを高速回転していた。僕は縋るように会話を続ける。
「できない……まだ、付き合っているから……」
「知ってる」
知ってるのか。酔いがほんの少しだけ醒める。
「……知ってて、忘れろって言ってるの?」
「そうだよ」
「現在進行形で付き合ってる相手をどうやって忘れるっていうんだ」
「忘れるって単に、記憶から情報を消し去ることじゃないでしょ。つい『さよ』って言う癖をなくすこと、それもひとつの忘れるってことだよ」
「意味がわからない」
「あ、そ。でもじきにわからなくちゃいけないようになるんじゃないの」
どうしてか僕の中に嫌悪感が噴出した。彩の何かに迫るような危なっかしい語りから、なんとしても逃れないといけないと思った。僕は床を縦に這うようにして立ち上がる。きちんと地に足がついているかわからなかったけど、目に見えない大きな力に抗えているような気がしたので、歩くには大丈夫だろう。
「帰る」
そう言ったつもりだったけど、実際に口から漏れたのは「あえう」だった。僕の発語には、母音しか残されていなかった。こんなことでは彼女には届かない。頑張って伝えようと喃語みたいに繰り言しているとそのうち僕は入口と出口の間にいて、立ち竦むか、そのまま外へ出るか、大いに悩むことになってしまった。そうこうしているうちにも外でも内でも時間は進んでいく。休みなく水のように流れていく。ほどなく僕は増水していく川の中州に取り残されて、泣き喚く子どもになってしまったようだった──。