15 千と一の前
猛烈な頭痛と共に、僕は目を覚ました。
「ぐ……」
思わず声を漏らしてしまうレベルの気分の悪さだった。嘔吐感があまりにも酷くて、一周回って吐くという気持ちが起こらない。喉元が猛烈にヒリついていて、舌の根あたりに何度も吐いた後の感覚があった。
僕は身を起こして、自分の状態を確認した。よれよれのスーツを着ていて、ところどころ汚れて擦り切れている。身体のあちこちに打撲系の痛みがあり、掌や腕に血が滲んでいたが、まあ、どう考えても観覧車から落っこちてできた怪我ではない。単純にコケて、受け身に失敗したのだろう。
それから僕は、周囲を見回してギョッとした。僕のいるスペースは、鉄格子に囲まれていたのだ。意識のないうちに、何かやらかして捕まったのではないかと、肝が思い切り冷え始める。
「あ、起きましたねぇ」
と、そこへ警官がやってくる。僕は急速な緊張やら、気分の悪さやらから、再び失神しそうになったが、次の一言を聞いて、一挙に気が抜けてしまった。
「あなたね、道で酔い潰れて倒れてたんで、保護しましたからね」
そこは警察署の保護房だった。酩酊状態の人間を警察が保護する制度があるなんて、僕はその時に初めて知った。
貴重品は全部無事だったが、財布の中の現金は空っぽだった。全部、酒に費やしたらしい。
こんなになるまで飲んだ理由はひとつしかない。
僕はスマホを見る。どこかで事故ったのか、保護ガラスがバキバキに割れた画面に、一件のリマインドが表示されていた。
『観里、1000日』
新しい恋人を作るかも知れない日を前に、僕は馬鹿みたいに心を乱して痛飲していたのだ。僕の過ごした恋愛歴はそれくらいドロドロとして、向き合いがたい何かだった。
ただ、今は不思議と心が澄んでいた。白昼夢の総体、或いは折りたたまれた恋愛歴──佐夜との暮らしと別れを通して、僕は確かにひとつの勇気を得ていたのだった。
家に戻った僕はシャワーを浴びて、適当な服に着替えると、再び外へ出た。
適当な住宅街の中を歩きながら、大きくを息を吐いて、観里に電話をかける。コール音が幾度も鳴り響いた。観里は出なかった。
「観里。久しぶり。あれから千日が経ったね」
それでも僕は構わず、空に向かって語りかける。
「あれからたくさん考えた。たくさん迷った。それでもまだ、君を好きになる資格が僕にあるのかどうか、わからないでいる。でも、ひとつだけ確信できたことはあるんだ」
僕は数年前の夏、君を初めて見た時のことを思い出す。
「観里の辛い顔だけを見ていたくない──笑った顔でいてほしい。これが僕の、心の底からの本音だったっていうこと」
或いは、ただの弁明なのかも知れないけど。
「頼りない確信かも知れない。でも、僕はまた、ここから出発したいと思ってる。君と一緒に」
電話は通じなかった。留守電ですらない。チープな電子音が不通を伝えている。
一気に緊張が抜けてしまって、僕はスマホをポケットにしまった。まあ、千日とはそれくらいの期間だ。別にこれならこれでいいと思った。僕にはこれくらいの罰がふさわしい。結局、僕は静子や彩を傷つけた過去の僕自身を許せていなかった。
でも、これからは少しずつ許していこう、と思えた。この許せなさは、どこまでも佐夜の生き続けた世界を志向するから生まれてくる。これからは佐夜のいない世界を受け入れて生きなくてはいけない。そうでなければ、佐夜が確かに僕の隣で生きていたという事実さえ、貶めることになってしまうだろうから。
その時、近くの家の扉が開いた。僕は思わず、そちらに目を向ける。
その家から出てきたのは、全く知らない人だった。呆然と佇んだ僕のことを不思議そうな顔で見ている。
「……まあ、そうだよな」
なんて苦笑した矢先、今度はスマホに通知が入る。
見ると、観里からのメッセージだった。
──こんにちは。お久しぶりです。連絡、待っていました。とても嬉しいです。すぐにでも住本くんと話がしたい。ですが、電話は緊張してしまって無理なので、今日、この後、直接会ってくれませんか。
「はは、そうだったな……」
今度、漏れたのは苦笑ではなかった。
僕は踵を返すとどこにでもある住宅街の中を、昨日とは少し違った足取りで歩いて行った。
参考文献
片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ』誠信書房、2017年




