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14 恋愛歴を折りたたむ

「──観里とそう約束してから、もう千日が経つ……君が意識を失ってから死ぬまでと、同じ期間だ」

 佐夜は僕の話を聞きながら外の景色を眺めていた。これ以上、ゴンドラの高度は上がらない。天辺が近づいてきているのだ。

「その間、あなたはこの生活の中を過ごしていた……でも、結局、ここはどういう場所なの。由浩の無意識? それとも、夢?」

「わからない。でも、僕というものの中で流れていた時間のひとつなのは間違いないと思う」

「私と出会うために折りたたまれた時間」

「あるいは白昼夢の総体」

 言い方はなんでもいい。とにかく僕が新たな気持ちを得るために拓かれた場所だ。

 佐夜は穏やかに目を細めて言う。

「その中で由浩が必要としたのは私への愛情を解体して組み直すことだった」

「うん。僕が観里への気持ちと向き合うために……ただ、僕が彩と別れることで完成させた佐夜への揺るぎない愛情は、僕の精神を支える要石のようなものになっていたけれど、時の重さに沈み、荒み、あまりにも黒ずんで、触れるのも難しいくらいになっていた。それを観里のために安易に動かそうとすれば、僕の精神は君への呵責のために崩壊して狂ってしまうかも知れない。そうならないよう、君への想いを純化する幸せな同棲生活が必要だった。例えそれが白昼夢のような現実味のないものであったとしても」

「ただ、その慰めの時間を得るためには、これまで付き合った人たちも巻き込まなくちゃいけなかった」

「僕の君への愛情は静子や彩のお陰で成立していたから、彼女たち抜きでは僕は正しい意味で君と暮らすことはできなかったんだ」

「そういう欲求の帰結として、由浩は自分の恋愛歴をひとまとめにした暮らしを復元したんだ。でも、由浩が自分でそのことを忘れていたのはどうして?」

「『正史』で僕が抱いていた屈折は、君のいる世界では不純物になってしまうからだと思う」

「なのに……観里はいつでも由浩の頭の片隅にいた」

「彼女の存在こそ、君と向き合うために必要なものだったから」

「そっか……そうやって由浩は、自分が確かにそこにいて、自分が確かにそう考えて、私を愛していたことを確信するっていう筋書きの、ドキュメンタリー映画さながらなリアルの反復をしてたんだ。それも全部、由浩がまた新しい誰かを好きになって、愛していく勇気を得るために……」

 佐夜がそう言うので、僕は息を呑む。そう、最終的に全て佐夜への裏切りに繋がっていくという事実は拭えないのだ。

「……ごめん。佐夜、僕は──何て言ったら……」

 言葉に詰まる僕へ、佐夜は柔らかく微笑んでみせる。

「ううん。由浩はいっぱい迷ったんだよね。私への愛情か、彼女のことかか。千日間も迷ったならもう大丈夫。由浩は私への気持ちを一生忘れたりなんかしない。だから、安心して……由浩は、由浩のしたいように生きて」

 迷ったなら、忘れない。

 その言葉は清らかな水のように、僕の胸に深く深く染みこんでいく。僕は彼女の手を両手で取ると、愛しさと共に握りしめた。

「佐夜……佐夜、ありがとう……」

「こちらこそ、ありがと。由浩と暮らせて嬉しかった。あ……見て」

 佐夜は窓の外を指さす。僕たちの乗ったゴンドラは観覧車の頂点、最も高い場所に到達してようとしていた。

 その景色を見て僕は直感した。終わりが近づいている。

 僕が佐夜への愛を組み直すためにこの暮らしがあり、かつての正史を不器用に反復していたとなれば、最後にあるべきことは一つしかない。

 佐夜と別れることだ。

「……僕はまた君を死なせないといけないんだな」

 僕は言う。人と人の別れを引き起こすものは、感情のすれ違いだけではない。「正史」をなぞるようにして、この恋愛歴がある一点……佐夜への永遠の愛情に収斂し尽くすなら、佐夜は再び、僕の目の前で死ななくてはならないだろう。

「そうだね。そうしないと、由浩はいつまでも私にべったりだから」

 ガコン、と音がして、ゴンドラの扉が開け放たれた。冷やりとした空気が流れ込んできて、漆黒の闇が僕たちの前に大口を開く。

 佐夜はその縁に立つと僕の方を向いた。彼女がこれから何をするのか僕にはわかっていた。わかっているからこそ、黙って椅子に座って映画を観るように見つめている。

「もう、これからは、私がいなくても大丈夫だよね」

 佐夜が言った。僕は頷いた。

「……ああ」

「ゴミも捨てられるよね」

「……それはわからない」

「そう。でも、やらなきゃ」

「ま、そうだよな。溜まる一方だし」

「……寂しくなるね」

 佐夜はゴンドラの外、遥かに広がる町の光を肩越しに見下ろしながら言う。

 僕は首を横に振った。

「いや……佐夜はそんなことは言わない」

「……でも、言ってる」

 彼女は意地悪するように、微笑む。僕は深く息を吐いた。

「言い方が違ったな。本当に寂しいのは僕の方なのに、その感情を君自身に投影してしまっているんだ」

「うん、そう。由浩、ちゃんと寂しいって思えるようになったんだね」

「ああ……結局、僕はどこまでも、僕の中の感情から目を逸らしたかっただけなんだと思う。それこそ、残された僕の本当にしなくちゃいけないことだったんだ」

「それを聞けて安心した。でも、さっきから気になってるんだけど……何で私が出て行くような雰囲気で言ってるの?」

「え?」

「これは由浩の恋愛歴なんだから、由浩がたたみきらなきゃ」

 佐夜はそう言ってゴンドラの外に足を踏み出した。思わず、あっ、と声が出てしまった。しかし、彼女の身体は落ちることなく、闇の中に確かな足取りで立っていた。

「ほら」

 虚ろに立った佐夜がゴンドラの中の僕に手を伸ばす。

「そうか……」

 確かに僕が進む勇気を得るために始めたことなのに、それを佐夜に締めさせるというのはお話にならない。

 僕は腰を上げると、その白く細い手を取ろうと腕を伸ばしながら、ゴンドラの外へと足を踏み出した。

 瞬間、ふっと、落ちた。

「あ……」

 身体が支えるものを失って虚空の中に沈んでいく。僕の全身を重力と恐怖感が一気に包み込み、遥か彼方の地面へと引きこんでいく。

「佐夜……っ!」

 僕は闇夜の中を落ちながらも、佐夜に向かって手を伸ばしていた。落ちていく僕の視点からは、彼女は天に向かってすごい速度で上昇していくように見える。

「……やっと、ちゃんと言える」

 佐夜は見下ろしながら言う。

「さよなら、由浩。大好きだよ」

 その声が耳に届いた時、僕の視界には大きな観覧車と、僕がばら撒いた涙のきらめく粒だけが残っていた。

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