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12 僕の愛情

 観覧車のゴンドラは、いまだに天辺を目指し続けて上昇を続けている。

 使い古したはずの記憶、僕の人生を最期まで支配し続けるはずの記憶を、まるで初めて知ったことのように思い出した僕は、あれほど会いたくて仕方なかった佐夜を見つめていた。中学の入学式で急激に大人になってしまった彼女。でも、あれから十年以上の歳を重ねた僕からすれば、その面影はまだまだ子どもでしかなかった。

「二年と九か月……この千日の時間の重さは、君が意識を失ってから死ぬまでの期間だ」

「そう、だったんだ」

 佐夜は憑き物が落ちたように穏やかに言った。自分の死について語られるのは、一体、どういう気分なのだろう。僕はしっかりと佐夜の手を握っている自分の手を見下ろす。

「その間、僕はずっと君の手を握っていた。いつか、握り返してくれる日を願いながら」

「うん。覚えてる」

「僕が君にしたことは、それだけだ……キスはしてない。そもそも、人工呼吸器が入ってたから近づけなかった」

 僕は打ち明ける。不思議な感覚だった。心待ちにしていたはずの佐夜との対話なのに、信じられないくらい平静でいられて、自分の想いを伝えることができている。かといって、感情がないわけではない。喜びも悲しみもどちらも僕の中に確かに備わっていて、正しく僕を動かしている実感があるのに、どうしてか落ち着いている。古いアルバムを見返しているような感覚だった。

「呼吸器がなかったら……」

 佐夜は熱っぽい眼差しを向けて、訊ねる。

「キスしてた?」

「してた」

 僕は断言した。佐夜はその答えを抱え込むように目を伏せる。

「そう……」

「でも実際はしてないんだ。だから、僕たちがここでするわけにはいかない……」

「うん……わかってる」

 佐夜は寂しそうに呟く。僕だって、どうにかしたいと思う。だけど、これは僕たちで決めたことなんだ。こうやって「正史」の箍をはめておかなければ、きっと、僕たちは無尽蔵に理想を取り出していってしまい、やがて壊れてしまっていただろうから。

「君が死んだ後、僕がどういうことをしてきたか……この時空で見てたよね」

「うん……」

 僕の問いに、佐夜は頷く。ここにいる佐夜は、佐夜が死んだ後、僕が三人の恋人と付き合っていたことを知っている。結局、その全員と別れたことも。

「僕は不安だったんだ。結局、届けることができなくて、返事をもらうことができなかった君への大切な気持ちが、宙に浮いたまま、このまま時の流れに攫われて、どこかへ消えてしまうんじゃないかって。そうしたら、君と僕の中学時代……二年と九か月のことが全て無駄になってしまう。失くしてしまった大切なものを大事に思い続けるには……目の前に存在する美しいものを、僕は美しいと思えない、と否定することで浮かばせておくしかなかったんだ」

 この心理にどう名前がつくのか、僕にはわからない。手の届かなかった葡萄をすっぱい葡萄だったと思い込んで心の安寧を得る「合理化」の変種みたいなものなのだろうか。みんながおいしいと言う葡萄より僕の育てていた葡萄の方がずっとおいしい、というような。

「それであなたは内古閑静子と恋人になった」

「うん。人気者で、高嶺の花であればあるだけよかったし、充実していればしているだけよかった。それで、楽しい楽しい恋人生活を終えたら最後に僕は言うんだ。『でも、僕は君のことは好きじゃない。佐夜への愛情には到底、及ばない』って……そうやって、僕は君への愛情を確立しようとした」

 なんて最低で歪んだ愛情の確かめ方だろう。でも、若い時代というのは信じられないほど愚かなことを、それしかないと思い込んでしまうものだ。あの時のうぶで未熟な僕にはそれしか思いつかなかった。佐夜への気持ちを守るためなら、無敵で悲哀な恋愛マシンになることも厭わなかった。

「だけどそうする前に、あなたの方が先に振られてしまった」

 僕は頷く。具体的に言えば、静子とは一緒に住むくらいのところまではいくべきだと思っていた。単純なゴール設定だと思うけど、それは佐夜が死ぬ前、僕が彼女の病室へと帰って一緒に暮らしていたのと同じ地点だった。

「そう……だから、慌てて人気のありそうな彩に乗り換えて同じことを続けた。ひどい話だけど彩は静子以上に僕のことを異性として好きになった。僕の狙い通りに、うまくいってしまったんだ」

 喧嘩ばかりだったけど彩は僕のことを本気で好きだった。結婚すら仄めかしていた。僕はその意思に気づいた瞬間、彩への愛情を、佐夜への愛情と比較できる段階まで来たのだと察した。

 そして、僕は彩と今後、添い遂げる未来を、どんなに頑張っても想像できなかった。空虚にも感じた。

 僕の中の佐夜への愛情の方がよっぽど強く、衰えることがないのだ──。

 そのことを確かめて満足した僕は、彼女に対して無情にも別れを切り出した。

 こうして僕は、僕の中で、佐夜への愛情を完成させることができたのだ。

「それから僕は、眠る君と手を取り合って過ごしたあの千日間の温もりと共に、死ぬまでひとりで生きていくつもりだった……のに、あれ……?」

 僕は呆然としてしまう。そこでは人を傷つけることの意味を知らなかった、自暴自棄でクズでガキな僕が描いた、完璧なラブストーリーが完結してしまっていた。

 でも、これだと今の状況と辻褄が合わない。

 枝遊観里が登場してこないのだ。

 というか、そもそもこれが「正史」なんだから、佐夜の喪失は僕の中でとっくにけじめがついて、孤独に生きて、死んでいく覚悟ができていたはずじゃないか。これ以上、傷つく誰かを増やす意味なんてないはずだし、彼女と出会った頃の二十一歳の僕にだって、いい加減そんな判断できるだけの分別があったはずだ。

 なのに、どうして僕は観里と付き合うことにしたんだろう。

 どうせ、別れることになると、最初から結論は出ていたはずなのに。

「だから、私は訊いたの」

 僕の戸惑いを察したのか、佐夜が言う。

「何のために、わざわざ由浩は、自分の恋愛歴を折りたたむようなことをしたの、って」

「…………」

 僕は押し黙る。

 恋愛歴の折りたたまれた千日間の生活──その始まりははっきりしないが、終わりが来ることを告げたのは、観里からの別れを告げるためのメッセージだった。膨大な通知と、別れを告げるためのシンプルなメッセージ。

「でも、今ならわかってもいいのかもしれない」

 ──私……ここの家の人になれたら、良かったな……。

 どこまでも続く住宅街に立ち止まって、そう呟いた静子が見つめていた家から現れたのは観里だった。

 家──はす向かいの家に暮らしていた佐夜という幼馴染み。彼女は事故で家に押し潰された。そんな彼女の眠る病室へ家みたいに帰ってきて一緒に暮らした中学時代の千日間。

 ──トラウマは回帰する。印象的な言葉や現象になって。

 彩がかつて語った言葉が蘇ってくる。佐夜の死は僕にとってのトラウマで、「家」とは僕にとって佐夜と過ごした時間と結びつく印象的な言葉になっていた。

 そして、そんな「家」の乱立する住宅街に迷い込んだ僕は観里と出会った。どこにも行けない僕と共に歩きながら、彼女は言った。

『居場所がないなら、新しい家を作れば』

 静子が、観里の家を見て「悪い気持ち」を起こして、この世界の中で僕との別れを選んだのであれば、それはどういう感情だったのだろうか。想像したくない。でも、きっと想像しなくちゃいけない。その責任が、罪が、僕にはある。僕は想像することによって、償わなければならない。

 静子は、自分の手に入れられなかったものを手にしようとしている人を見て、失望してしまったんじゃないだろうか。

 僕が好意を寄せようとする観里という存在を──。

「……」

 正体の掴めない何かが、遥か向こう側から押し寄せてきている。

 恐怖に打ち震える僕に向けて、佐夜が言う。

「この恋愛歴を折りたたんだ千日間を通って、何かを得ようとしているのは由浩じゃない。きっと、彼女──枝遊観里なんだと思う」

 僕は強く目を閉じた。

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