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11 君と二年九ヶ月

 中学生の僕は病室のドアを開ける。

 ベッドの上にはたくさんの管に繋がれて、ガーゼや包帯まみれの佐夜の細い身体が横たわっていた。

 その傍らに三人の人間がいた。佐夜の両親、そして、事故を起こした運転手のおじいさん。佐夜をこんなにした当事者は、肩を震わせていた。

『本当に……なんと言えば、よいか……』

 僕の目には、それが異様な光景に映った。大の大人が、三人こぞって泣いているのだから。

『何しに来たんですか』

 僕は言った。おじいさんは僕に気が付くと、はっとしたように目を見開くと、それから顔をくしゃっと歪めた。

『由浩くん……私は、とんでもないことを……』

『本当ですよ……本当だよ、どうしてくれるんだよ!』

 僕は病室であることを忘れて怒鳴り、怒り狂った。おじいさんの顔は贖罪と恐怖の色で混じりあった。

『由浩くん、やめなさい!』

 僕は強い力で引き剥がされた。止めたのは佐夜のお父さんだった。

『なんで止めるんだよ! 佐夜が死んだのに!』

『なんてことを言うんだ! まだ佐夜は死んでない!』

 それは事実であったが、同時に祈りのようでもあった。一応、確かに心拍は存在する。でも、心臓の音だけじゃどうにもならない。僕は佐夜には笑って、いつものようにはす向かいの家から出てきて、帰って行ってほしかった。

『お願い……静かにして……』

 佐夜のお母さんが辛そうな面持ちで言った。彼女もまた、ベッドの上の佐夜と変わらないくらいにやつれてしまっていた。細々とした手で佐夜の冷たい手を握っていた。

 佐夜の両親は運転手のおじいさんを訴えなかった。心の底からの謝罪の言葉、態度、被害を全て補填すること、佐夜の治療費を全面的に負担すること、その他もろもろの条件を整えたうえで和解したのだという。

 何故なのか。僕には意味がわからなかった。佐夜の両親はいくつかの法律的な手続きを経て、娘が植物状態になったことを赦したということだ。どうして赦せるんだ? どう考えてもおじいさんが悪くて、絶対に防げた事件だったはずなのに。そして、あなたたちが最も、憎まなければいけなかったはずなのに。どうして──!

『本当に、申し訳ありません……本当に……』

 おじいさんは何度も何度も謝罪をして病室を出て行った。隣の家の人だったが、決してそれまで交流がなかったわけではなかったのに、本当にそれ以来、僕が彼の姿を目にすることはなかった。

 そのおじいさんはその次の年の春に亡くなった。持病の心臓病によるものらしい。その時、まだ佐夜は生きていた。僕は恨むべき人を失った。それどころか彼が亡くなってから、彼のことを苛烈に責め立てたのを後悔するようになった。僕があんなに怒鳴ったから、おじいさんを追い詰めてしまったのではないか。

 でも、ああする以外に僕はどうすればよかったんだろうか。誠心誠意の謝罪も、補償も、手続きも、お見舞いも、それによって佐夜が帰ってくるというわけではない。そういう意味では、僕の怒りは正当ではある気がしたが、少なくとも佐夜を元通りにするという非現実的なこと以外を、あのおじいさんはできる限りしようと努めていたんじゃないのか? 必死に自分の罪を贖おうとしていたのではないか? これ以上、過ちを広めないためにも……死ぬまで僕に姿を見せなかったのも、その一環だったんじゃないか。

 遺言に従って、おじいさんの遺産・保険金は最大限、佐夜の生命維持にあてられることになった。それが彼なりの贖罪の形だとしたら──なんて、末恐ろしい気がした。命を費やしても、取り戻せないものがあるのだと僕は知った。

 僕は毎日、病室に顔を出した。部活も塾もサボりながら。そのうち、どちらもやめた。僕の時間は、ベッドの上、動かない彼女の躰の隣、スツールに腰かけてその手を握っていることに注がれていた。

『よしくんは結婚したい人いる?』

 佐夜の問いの意図に気が付いたのは、彼女が昏睡に陥って、しばらく経ってからのこと。ようやく僕に思春期という、危うい時期が訪れた頃だった。

『いるよ……今、めちゃくちゃ、いる……』

 僕は無窮の眠りに沈む佐夜に言った。届くわけがないことはわかってる。帰ってくることがないのもわかっている。でも、言わない理由はなかった。

『佐夜……僕は佐夜のことが、好きだったよ……ずっと……』

 いつの頃からか、そうだった。

 僕は佐夜のことが好きだった。そうと気が付く前から、きっと、ずっと。

 ふ、と、手に感触があった。僕は驚いて、握り締めた手を見下ろす。ただ、そこには力なくぐったりと横たえられた青白い手があるだけだった。握り返されたと思ったのは気のせいだった。気のせいだとわかっていても、その時、掌に掠めた佐夜の生気をいつまでも忘れることができなかった。

 せめてもう一度。

 その念で、僕は佐夜のもとへ通った。そのうち、僕の認識では彼女のもとへ「帰る」といったほうがしっくりくるようになってきた。彼女のいる病室の方が、戻って布団で寝るだけの自宅の部屋よりもよっぽど家として機能していた。僕と佐夜は同じ家に生活していた。少なくとも、僕の感情の上では。

 それから、三度の冬を巡った。僕は佐夜の隣で勉強して、その病院の近くにある高校に合格した。

 そして、そのことを報告した翌々日に佐夜の心臓は永遠に静止した。そこが、佐夜の残された体力の限界だったのか、中学卒業のタイミングで生命維持を外すつもりだったのか、わからない。多分、それは僕が知ってはいけないことだ。

 そうして、ふたり一緒に入った中学を僕だけが卒業した。

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