10 はす向かいの家
佐夜と僕は幼馴染だった。
はす向かいの家の同い年で、僕も佐夜も一人っ子。幼稚園のバスで同じ場所で降りる子、程度の認識だったけど、小学校に上がってからは、物騒な世の中だしふたり一緒で帰ってきなさい、という親心によって一緒にいる時間が増えた。
佐夜は大人しい性格なのに、男子と混じってよく遊んでいた。それが、僕と一緒にいたいがためだと知るのは、随分と後になってのことだ。当時の僕は一般的なガキで単なるアホだったので、「ちょこちょこついてくんな」みたいに悪言を放って泣かせたことも多々あった。
ただ、そういう態度をとる要因が、疎ましさから照れ隠しに少しずつ変わっていっていたことに思春期以前の僕も自覚していたようだ。友達の前だと恥ずかしいので、佐夜と喋ったり遊んだりするのは、家に帰ってからとか、一緒の塾に行く時とかに限られるようになった。
『よしくんは好きな女の子いる?』
ある日の帰り道、佐夜はそんなことを訊いてきた。僕は質問の意味がわからなかった。
『んー? いないよ、そんなの』
佐夜は、へえ、とか、ふうん、とか、そういう反応を一切せず、じとっとした目つきで僕の顔を眺めていた。コイツ、何もわかっていないな、という憐憫の眼差しだったのだろう。でも、残念ながらガキなんてそんなものだ。「好き」という単語の解像度が低すぎて、「カッケー」との区別がついていなかった。
『パパとママはおたがい好きだから、ずっと一緒にいるんだよ』
佐夜は言った。僕はそんなこと当たり前だと思った。
『そりゃそうだよ。結婚してんだから』
『よしくんは結婚したい人いる?』
いるわけがない。僕は、その時に流行ってたアニメに出てくるお姉さんキャラの名前を言った。単なる人気キャラだった。
佐夜は溜息を吐いた。
『もういい』
『なんだよ。お前はどうなの?』
僕はムッとして訊き返してみた。
『え、そ、それは……』
佐夜は腋の下を触られたようなびっくりした顔をすると、耳を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。何で答えられないのか。何で答えられない質問をして、回答に納得がいかない素振りを見せるのか。僕は壊れたおもちゃを前にしたような気分になった。
『なんだあ? まあいいや。それじゃ』
僕はそう言って、手を振った。そんなやり取りをしているうちに、僕と佐夜の家の前に着いていたのだった。
『ん……中学でも、よろしく……』
佐夜は小さく手を振って、自分の家に帰っていった。
ある日──とは言ったが、その日は僕と佐夜が、同じ私立中学校の合格発表を見に行ったのだった。思えば、その日まで佐夜は不安でいっぱいだったのかも知れず、それを乗り越えたことで、更に他の何かも乗り越えられると感じていたのかも知れない。
佐夜の言ったことの意味を、ようやく深く捉えたのは四月八日になってのことで。
『由浩』
朝、家の前で落ち合った、佐夜を見て僕は愕然としたのだ。
『おはよう……』
制服を着た佐夜は、春休みの二週間の間、時間の流れが違う場所にいたのかと思えるほど大人びて見えた。確かに、お洒落でかわいいデザインの制服ではあったが、その意匠に着せられていると感じないくらい、佐夜の雰囲気は垢抜けていた。僕はその急激な変化についていけなくて、猛烈にドキドキしたのを覚えている。
『え、ほんとに、お前なの? あと何で由浩って呼ぶの』
『中学生だから』
『なんだよ。そうやって呼ぶとか、ママ……お母さんみたいじゃん』
口の中で舌が絡まる。僕も中学生になるからママ呼びを卒業すると宣言したばかりだった。
『……ほら、そういうこと』
くすっ、と佐夜は笑う。正味、めちゃくちゃ恥ずかしかったが、それよりも僕はその仕草に見とれて、ボケっとしてしまった。理由はわからなかった。その時の僕の中に、彼女の何がそんなに僕の興味を奪ってやまないのか、表現するための言葉が存在しなかったのだ。
『くっ……もう、さっさと行こうぜ』
僕は振り切るように歩き出した。
『あ、待って』
佐夜が追いかけてきて横に並んだ。たったそれだけのことなのに、僕はすごく嬉しく感じた。何なんだ、これ? 僕の心には、大量の疑問符が浮かんでいた。勉強を頑張ってゲームを買ってもらった時とか、楽しみにしていたアニメを見ていた時に感じた喜びとは本質的に違う、全く新しい種類の喜びを感じていることに、僕は混乱していた。それも、人生の大半を共に過ごしてきた幼馴染に対して、今更どうして?
『手、繋ぐ?』
佐夜はなぜか上機嫌な様子で言った。
『なんでだよ』
僕は意味がわからないので、断った。
そうやって、何も変わっていないのに、がらりと変わってしまった僕と佐夜の生活が始まった。妹みたいに僕が引っ張りまわしていた時代が終わって、今度は僕が弟みたいになって佐夜にあれこれ世話を焼かれる日々。全く新しい環境で、全く新しい関係に変わって、正直、戸惑いの方が大きかった。世界がドカンと広がってしまったような。
でも、不安はなかった。僕には帰ってくる家があって、そのはす向かいには佐夜の家があった。それだけで、僕はこの変化の中でも十分にやっていけるという実感を持つことができたのだ。
その実感はもちろん、何の根拠もないものだったわけだけど。
──私を失う。この世界で、もう一度。
彼女の言うとおり、僕は佐夜を一度、失った。
観覧車は高度を上げていく。どこが最高高度かわからないままゆっくりと。
佐夜は僕の頭の中の、抑圧された記憶を読み解くように語りだした。
「私は中学に入学して二か月後、自宅前で車に轢かれて、緊急搬送された」
大きな金属片が頭の中を突き抜けていくような感触がする。僕は黙っていたかった。喋りたくなかった。なのに、口が他人のように喋り出した。
「……重たい雨の降る日だった。地面は濡れてよく滑り視界もよくなかった。気圧もかなり荒れていたと思う」
気圧の変化なんて、十二歳の若すぎる僕らには関係のないことだったが、恐らく運転手には大いに関係のあることだったはずだ。彼は、八十六歳の僕の家の隣に住む老人だった。
「あのおじいさんは、バックとドライブを取り違えて、アクセルとブレーキを踏み間違えた。その時、私は家の扉の前に立って、鍵を探してバッグの中を見ていた」
僕の家の隣ということは、老人の住まいは佐夜の家から見て真正面の家だ。老人はバックで車庫に車を入れようとして、途方もない間違えを犯してしまった。
「僕が帰った時には、もういろいろと済んでしまった後だった……」
玄関に突っ込んだ車。崩落しかけた家。たくさんの警察官。ニュースでよく見るような青いブルーシートが玄関の扉と車のひしゃっげたボンネットにかけられていた。
佐夜は家に押し潰されたのだ。とても強い力で。
目の奥から血が抜けていくような感触に見舞われて、僕は瞼を閉じた。死神みたいな奴が僕の意識をつまんで、引っ張り出そうとしているようだ。厚かましくも、僕はそれに抵抗していた。
「ただ、私は、死ななかった」
佐夜は僕の眩む意識へ手を差し伸べるように言った。僕は救われたように目を開くとゆっくりとうなずいてみせる。
「そう、佐夜は死ななかった。ただ、生きもしなかった」
「意識を失ったまま、心臓と脳だけが最低限の活動を続けてた」




