柊渉
「じゃ、またね市ノ瀬さん。と、柊くん」
「はい。色々とありがとうございました神楽さん」
僕はオマケみたいだねっと笑っている先輩は、買ったばかりのギターを大切そうに背負う。
あの後、私は神楽さんと連絡先を交換した。
高校での柊先輩のことを色々聞かせてもらった。
あとは、10月にある学園祭でライブをやることも教えてもらった。
先輩がギターで、神楽さんがベース&ボーカル。そして先輩の友達である山辺さんがドラムをやるとのことらしい。
それで先輩も自分の家でギターを弾きたくて買ったのだと思う。
青いボディに3本の白いラインの入った、中古のフェンダー製のムスタング。
先輩の好きなバンドの人が愛用していたというムスタング。
神楽さんの持っているギターがSGらしいので、高音の綺麗なテレキャスターと迷ったすえに、好きなバンドの愛用品ということでムスタングが選ばれた。
他のギターたちと違ってスケールが小さくて私のサイズで持ちやすそうに映る。
「それじゃ、市ノ瀬。僕もここで」
いち早く自宅に帰って弾きたいという顔をしている。
おもちゃを買ってもらった子供のような。
こういうところは、見ていてほっこりする。
「先輩の家、いえ……。なんでもないです」
「うん、ごめんね。じゃ、また明日」
3年間の付き合いになるけれど、私は先輩の自宅に一歩も足を未だに踏み入れてない。
何かあるんだろうとは思う。
このままでいいのだろうか、とも思う。
一歩踏み出すべきか。
タイミングが難しい。
押し引きの判断。
ここで押せば嫌われてしまうかもしれないという不安が、私の判断を鈍らせる。
もやもやする。
※
「いらっしゃいませって夏菜か」
「うん、父さんさぁ」
辺りを見回して、お客さんがいないことを確認してカウンターへ。
午後の忙しい時間を乗り切って、父さんもまったりとしている。
そろそろお店を閉める時間でもあった。
深い話しをしにきたわけではなく、このもやもやとした気持ちを発散させるつもりで、父さんの元にやってきた。
ただ話し相手が欲しかっただけ。
「先輩の家知ってる?」
「知ってるよ」
「……知ってるんだ」
「まぁこれでも雇い主だからね」
「それもそっか」
言われてみれば簡単な話だった。
いくら先輩と父の仲とはいえ、然るべきことはしっかりやるものだ。
「聞いてもいい?」
「駄目」
「なんで? プライバシーの保護?」
「それもあるけど」
父は自分用に入れていたコーヒーにミルクと砂糖を入れて私に差し出す。
コーヒーは甘くないと私は飲めない。
それと、真剣な話になるだろうから。
「どちらかというと柊くんのためにかな、自宅の場所は教えられないけど、夏菜の知らない柊くんのことなら少しは話してもいいかなっては思ってる。いつか聞かれるだろうことは予想はしてた」
「父さんのその口ぶりからして結構重い?」
「うん」
「そっか」
本人の口から聞くべきことなのかもしれない。
けれど、ここで聞かなきゃ進展しないような気もする。
信頼関係は築けていると確信を持って言えるが、なんというか先輩と私の間には見えない壁のようなものがある。アピールしても暖簾に腕押し、あんまり良い手応えが得られていない。
いい機会かもしれない。
「聞かせて」
「わかった」
父さんは私の返事に満足したように頷き、いつもより少し早めに店を閉める。
「柊くんが幼い頃から父子家庭なのは知ってるよね?」
「それは初めてうちに来た時に聞いたよね。お父さんも仕事でほとんど帰ってこなかったからずっと一人だったって」
悲しいけど、よくある話。
たまたま先輩がそうだっただけ。
「でも、柊くんの場合はちょっと違ってね」
私の考えていることがわかったのか、父さんは先読みする。
それから父さんが語るのは先輩の生い立ち。
※
柊渉が生まれる前から彼の父は仕事人間で家に帰ってくることは稀であった。
小学校、入学式の日に初めて父親と会うことになったのだが、彼は自分の父を父として認識出来なかった。
開口一番『誰この人』と言ったそうだ。
ただ、まだそれだけなら良かったのかもしれない。
次に繋げた言葉が彼の最大の失言。いや、子供に罪はない。
『お父さんなら別にいるよ』
それの意味を理解するのに柊渉は幼すぎた。
物心ついたころから母の隣にはいつも別の男性がいた。
話したことは一度もなかったが、薄暗い部屋の中、母とその男性がよく抱き合っていたのを見かけていた。
だから柊渉は、その男性が父親だと思っていた。
生まれて初めて見る男性と、自宅にいつもいる男性。
勘違いが起きるのも無理からぬことだった。
柊渉にとっての母親はご飯を与えてくれる人という認識で、ただ母の味と言われて連想するのはコンビニ弁当や、惣菜、ファーストフードの味。
自分との会話は必要最低限。
家で聞こえる声は媚びた女の声。
父からも母からも愛されなかった存在。
ただいるだけの子供が柊渉だった。
入学式の一週間後には離婚が成立し、柊渉は家の中で完全に一人になった。
寂しくもなかった。
女の声が聞こえないだけ。
いつもいた名も知れない男性が消えただけ。
本来の父も更に仕事に集中し、家に帰ることは更に稀になった。
柊渉も学校が終わっても帰ることはなく、一人でずっと学校に残り、その時授業でやっていた物を集中して勉強したり、サッカーやバスケをずっとやり続けた。
近所の公園にバスケットゴールがあるのを知ると、ボールを買いずっとゴールに投げ入れ続ける日々を送った。
※
「……なにそれ」
意味がわからなかった。
死別か離婚かのどちらか、それは話を聞く前からわかっていたのだけれど。
父親は酷いと思うが、まだ理解できる。
けれど母親は、親とすら言えない。
恵まれた家庭に育った私とは天と地の差を感じる。
「これで済んだのならまだいい方かもしれないね」
「まだ、あるの?」
首を立てに。
父の表情は暗い。
「柊くんが生まれる前から、母親は不倫していたから柊くんが本当の子供かどうか、彼の父親はわからなかったそうだよ」
「……」
「母親似、俺から見ても彼の父親とは容姿が全然似てなかったからね」
「会ったことあるの?」
「まぁね。彼の父親とは一度話しをさせてもらったよ」
私の知らないところで、そんなことが。
「子供一人を家にずっと残してることもあり、生きてるどうかの確認をするために数ヶ月に一回程度は帰ってたみたいだけど。元嫁さんの顔に似ているから辛く当たったこともあったそうだ」
「本人から?」
「うん」
「……」
「で、なぜ柊くんの家を教えないわけなんだけど」
そうだ。
元々はそれを聞きたいがために父と話しを始めたのだ。
「自宅に女性がいるとトラウマを思い出して調子が悪くなる。最悪、熱が出て吐くほどひどくなったことがあるらしい。年齢が上がるにつれてそういう知識もついてくる。だからか、余計に家から遠ざけるような事になったってさ」
「そこまで酷いんだ」
いつも緩い顔をしている先輩とは結びつかない。
コーヒーを一口。
ぬるい。
話しを聞いている間、一切口をつけてなかった。
「誰一人として家に女性いれてないらしいから、今はどうなのかはわからないけどね」
治っているといいなとは思う。
無理に私が家に行って悪化させていたらと、思う。
父さんに話しを聞いていてよかった。
判断に迷っていたからこそ、余計なことをしなくて済んだ。
「彼も直したいとは言っていたから、そのうち夏菜に頼むかもしれないね」
「そう」
その時がくれば喜んで協力する。
私にも理がある。
「そういう訳だから柊くんの家には無理に押しかけないように」
「わかってる」
父は新しくコーヒーを淹れて、一息つく。
「柊くんが普通の男子だったら、夏菜にすぐ惹かれたんだろうけど」
そうなのかな。
でも普通の環境で育った先輩と私は出会わなかったような気もする。
これで良かったのだと、思いたくはない。
出会うべくして出会ったのだと思いたい。
「夏菜はどうする?」
その言葉を意味するのは、今なら引き下がれるよ。
という優しさ。
けれど最初から私の気持ちを察していて、ただ聞いているだけに過ぎない。
「うん、大丈夫。父さんなら私が本気だってこと知ってたでしょ」
「悪い。それでも確かめておかないとな。娘が中途半端な気持ちで進んで傷つくことは避けたい。癖のある恋愛になるだろうなって薄々感じてた」
「そうだね。私より先輩のほうが恋愛素人だから」
「夏菜も気付いてたんだ」
「そりゃそうだよ。押しても引いても反応が薄いし」
「……あはは。人の愛し方も愛され方もわかってない。多分、子供のまま成長出来なかった部分なんじゃないかな」
「両親があげなかった分も私が先輩を愛せばいいんじゃないって思ってる」
父さんは口をあけて呆然としている。
「夏菜の愛は重そうだな」
「父さんと母さんに似たんだと思う」
「柊くんがんばれ。超がんばれ」
父さんも本当に身内に甘い。
いくら雇い主だからといって、こんな身の上話を先輩に聞いても答えてくれるわけがない。
恩があるとはいえ、私だったら話さないし、そのまま何事もなかったように振る舞う。
少々強引な形を取ったのだろうと予測はついた。
結構前から知っていて、タイミングを見計らっていたのは事実だと思う。
私は恵まれている。
本当に良い両親から生まれた。




