Cafe Dahlia
「はぁ?」
間抜けな声を出したのは私だった。
春休み。
父さんに言われてカフェの手伝いに来ていた。
裏口からお店に入り、スタッフルームで着替えを終わらせる。
フロアに出てみると。
白いシャツに黒いスラックス。
スラックスと同じ色のショートエプロンの男性。
父さんではない。
バイトの大学生でもない。
よく知っている顔がそこにはあった。
「……なんで先輩がいるんですか?」
「おはよう市ノ瀬」
いつもの穏やかな顔つき。
彼の卒業以来、連絡は取り合っていたけれど直接顔を見て話すのは久しぶりだ。
人の気も知らないで。
こっちは緊張してしまう。
「なんなんですか……」
先輩を睨みつけ、更に奥。
カウンターの端にいると自分の父親を睨みつける。
私の視線に気圧された父さんはのこのこ私たちの元へやってくる。
「いや、うん。今日から働くことになった柊君です」
「知ってる」
「大学生のバイトくんの就職が決まったのでその変わりに雇い入れました」
「それで?」
「……夏菜をびっくりさせようと思い、黙ってました」
父は小さくなって奥にまた引っ込んでしまった。
「先輩は私に言うことありますよね?」
「え?」
「え? じゃないですよね?」
「すんません」
「謝罪を聞きたいわけじゃないです。どうして先輩まで黙っていたんですか?」
無言で親指で後ろを指す先輩。
「はぁ……。あの人は……」
いつまで経っても子供みたいなことをする。
先輩とまた一緒にいられる。
それを嬉しいと思う自分が腹立たしい。
「まぁ、もういいです。仕事にならないと思いますので私は一度キッチンに戻ります」
「ふぅ」
「躱せたと思わないでください。バイト上がったら今日うちに来てもらいますからね?」
「……はい」
先輩も父さんのように萎れる。
なんでこの二人は変なところ似てるかなぁー……。
私がバックに下がると、父さんがすれ違いで出てくる。
「父さんも後で話があるので」
「……はい」
「じゃあ、ちゃんと先輩に仕事教えてあげて」
ランチの仕込みが終わり調理場からフロアを覗く。
元々先輩は飲み込みが良いわけではないのは知っていたけれど、丁寧にメモを取りながら業務内容を反復している。
基礎能力は高いものの、それは努力によって培ったものだ。
バイトでも同じように努力を重ねる。
これぞ先輩といったところが誇らしい。
※
「ただいまー」
「お邪魔します」
お手伝いが終わり、自宅。
リビングにいる母さんに一声掛け私の部屋に入る。
「市ノ瀬の部屋に入るの初めてかも」
「そうでしたっけ?」
誤魔化しているものの、私も気付いていた。
あと、部屋を見渡すのはやめて欲しい。
結構恥ずかしいのだ。
掃除はこまめにしているから散らかってはいないけれど。
内面を見られているような感覚に陥る。
「あ、これ」
何かに気付いたのか、机に視線を送っている。
視線の先にあるものはフラスコ型のガラスの入れ物。
「まだ持ってたんだね。これ去年のやつじゃん」
「はい、まぁ」
やばい、部屋を見られる比じゃないほど恥ずかしい。
慌てて話題の変換を図る。
「それより先輩を部屋に招いたのわかりますよね?」
「のー」
「本気で言ってます?」
先輩の答えに拳を握るモーションを見せた。
「市ノ瀬こわいって顔」
「無表情で何考えてるかわからないって子供のころ言われてましたからね」
「意外と表情豊かで可愛いって思うけどな……」
「……馬鹿にしてます?」
「してないよ」
本気で言っているからたちが悪い。
気があるのでは、と。勘ぐってしまう。
振り回されるこちらの身にもなって欲しい。
「とりあえず座ってください」
「うっす」
私は学習机に座り、先輩は対角のベッドの上に座った。
「アルバイトのことを秘密にしていたのは良しとします。あれは父が悪いので」
一旦言葉を区切り、彼の目をじっと見つめる。
「どうして急にアルバイトを?」
どう答えるか迷っている。
適当に答えるつもりなら考えないだろうと思う。
沈黙のあと、先輩がようやく口を開く。
「市ノ瀬は知っていると思うけど、僕が父親と二人暮らしなんだよね」
「はい」
「大学の費用までは貯めてくれているんだけど、他の部分ぐらいは父親に頼らずとも自分でなんとかしようかなーっと」
「そうでしたか」
「まぁーね。それを春人さんに相談したら、うちで働かないかって言われたからそのままね」
「父に相談したのはいつなんですか?」
「卒業式が終わった2日後」
「……」
帰ってきたら本当にとっちめてやる。
「卒業式と言えば、先輩の用事ってなんだったんですか」
「家の用事だよ」
「言える内容ですか?」
「言えない内容」
「わかりました。聞かなかった事にします」
いつか教えてくれるといいなと漠然と考える。
あんまり深く考えないようにしていたけれど、私が告白するのを察して逃げたんじゃないかって少しだけ考えてしまい、違うのだという安心感が湧き上がる。
不安だったのだ。
いくら母に慰められたからって拭えるものじゃなかった。
「どうした? 市ノ瀬」
「へぇっ?」
「いや、ほっとした表情してるから」
「……よくわかりますね」
「長い付き合いだからな」
「そうですね。まぁ、先輩に嫌われたのではないかと少しだけ不安だっただけです」
「ふ~ん」
唸りながら私の顔の覗き込む。
身体が少し熱い。
「聞かなかったことにしてください」
「ばっちり聞いちゃったし。まぁ僕が市ノ瀬のこと嫌いになるわけないじゃん」
「……っ」
身体だけじゃなくて、目が熱い。
必死に堪える。
「馬鹿だな市ノ瀬」
母がするようにやさしく頬を伝う涙を拭う。
泣くつもりなんてなかった。
「……馬鹿は先輩です」
こんな風に優しくされてしまったらもっと好きになる。
また振り回される。
惚れた弱みなのかもしれない。
失恋だけが負けだと思っていた。
……惚れてしまった時点で負け。
そんなことを、ふと考えてしまった。
血の繋がらない男の人の前で泣くなんて思いもしなかった。
いつもどんなことでも、なんでもやれた。
言うなら負ける人の気持ちがわからない。
だから卒業式の日も今日も泣いてしまったのだと思う。
これは敗北を認めるしかない。
これから負け続けることになる。
でも最後に勝てばいい。
それで全て帳消し。
覚悟を持った女は強いと。
私が落ち着くのを待って先輩はそのままベッドに横になる。
気を使わせたかな?
心の中で謝罪する。
口に出すのは憚られた。
これ以上負けを認めたくない。
これから勝つつもりでいるのだ。
「市ノ瀬の匂いがする」
「……っ、最悪」