有言実行の侯爵令嬢
フリューゲル侯爵邸の図書室に並んで座り込む幼い少女、ユリア・フリューゲル侯爵令嬢と、その婚約者であるラファエル・ドーラン伯爵令息の二人。
生まれてすぐ婚約が決まり、お互いの領地を行き来して仲を育んできたお陰か、周りの大人達が微笑ましくなる程の仲良しさだ。
ふと、ユリアは隣に座るラファエルの名を呼ぶ。
「もし浮気したら、絶対に許さないからね! 結婚してあげないんだからね!」
父が浮気をして母が泣いていたのを思い出した為、ぽろりと出た言葉。
「わかった。絶対に浮気しない。ユリアだけを愛するよ」
突然の宣言に、戸惑う事も迷う事もなく言い切るラファエルに、ユリアは嬉しそうに小指を差し出す。
約束だよ、と小指を絡める幼い少年と少女は、顔を見合わせて満面の笑みを浮かべた。
***
あの約束から十年。
ユリアはカフェテラスに座る男女を見て、疲れたように溜め息を吐いた。
十五歳から通う王立高等学院に入学した当初は、二人の仲に特に問題はなかった。政略結婚とは思えない仲の良さで、周りからは羨ましがられていたくらいだ。
しかし、次の年の新入生が入学してから、ラファエルの動向がおかしくなっていた。
ユリアの誘いを断る回数が増え、贈り物も徐々に減ってきて、終いにはユリアへの態度も酷いものになったのだ。
最初はユリアも何かしてしまったのか、と自身の言動を省みて気を付けたり、両親に相談しては年頃だから仕方ない、なんて言われては我慢していた。
そんなある日、仲の良い友人から聞いてしまったのだ。
ラファエルと新入生の女性が、街で手を繋いで歩いていたと。
学院の庭で恋人のように寄り添い、口付けを交わしていたと。
最初は信じられなかったが、学院のカフェテラスで恋人同士のような距離感で笑い合う二人を見て、ユリアは信じるしかなかった。
一緒に居る女性はバーナム男爵家のご令嬢で、庇護欲をそそる可愛らしい顔立ちをしていた。
そんな愛らしさとは無縁の、つり目がちな目と真っ赤な唇は、美人だがとても癒しとは程遠い。
真顔は友人にも怖いと言われるので、常に微笑みを絶やさないよう努力しているユリアだ。
婚約してからずっと、思い合っていると信じていた心に、ピキっと音を立てて罅が入った気がした。
じっとラファエルを見ていると、ふとラファエルの瞳がユリアに向いた。
慌てて釈明でもするのかと思えば、嘲るように嗤ってバーナム男爵令嬢に視線を戻す。
その見下した視線とこれまでのラファエルの態度に、ユリアの心の罅はさらに広がり、ガラガラと脆くも崩れ去った。
残ったのは内側にあった強固な心と、女性として、侯爵令嬢としてのプライド。そして十年前にした約束だけ。
ラファエルとの思い出も恋心も、粉々になった邪魔なゴミとして。全てを蹴り捨てた。
くるりと踵を返して、カフェテラスから立ち去るユリアに注ぐ、憐憫と嘲りの視線。
そんなものに興味はなく、ただただ約束を果たす為、王都にある侯爵邸へと戻る。
婚約解消に向けて、父を説得する為に。
睨みつけるような目力と脅しを駆使した甲斐あって、父から婚約解消が許可されたユリアは、悪どい微笑を浮かべて自室に向かう。
すれ違う使用人達の怯えを含んだ視線にすら、今なら気分が高揚するだけだ。
歌い出したい位の気分も、自室に戻り一人になった途端、無表情となり寝台へと崩れ落ちる。
胎児のように丸くなり、零れ落ちる涙をそのままに、ひたすら声もなく泣くユリア。
長く、一途に想った心への弔いのように。
両家の話し合いで婚約が解消されたと父から聞いたユリアは、すぐに新しい婚約者を決めた。
以前から婚約の打診をしてきていた、ウィスタリア公爵家の嫡男だ。
婚約者がいるからと何度断っても、諦めない不屈の精神を持ったストーカー、もとい一途な男。
今回の事で運良くユリアを手に入れる事が出来て、幸運だったのだろう。
ユリアの心を手に入れる事が出来るかは彼次第だが。浮気をしなければ、その時間は十分にある筈だ。
婚約解消から新たな婚約が整った後、ユリアのもとにラファエルがやって来た。
学院の昼休憩で、カフェテラスへと向かう途中だった為、周りには沢山の生徒がいるにも拘わらず。
「ユリア! 婚約解消ってどういう事だ」
怒鳴りつけるような声音と、眉を寄せて不機嫌な表情をしたラファエルに、ユリアは訝しげに首を傾げる。
「わたくし達の婚約が解消された、というだけですわ」
それの何がおかしいのかと、ラファエルの言いたい事が理解出来ない。
バーナム男爵令嬢と仲睦まじい姿を見せていたのだから、婚約解消されて喜ぶならわかるが。
「そうではなく! 何故、婚約解消されなければならないんだ」
ユリアを蔑ろにして、バーナム男爵令嬢に懸想していたくせに何を今更、とユリアは呆れる。
「十年前の約束を守っただけですわ」
その言葉にラファエルは目を見開いて固まり、次いで焦ったように口を開く。
「あ、あれは浮気ではないんだ! だから婚約は解消しない!」
見苦しい言い訳に、冷めた視線で答える。
誠実な人だったのに、どうしてこんな人になってしまったのか。若気の至りというやつだろうか。
「ユリアに嫉妬して欲しくて、浮気している振りをしていただけなんだ。信じてユリア」
浮気男の戯れ言に、笑い出しそうになった瞬間。
ふわりと腰に添えられた手の温もりに、隣に立つ男性を見上げた。
「私の婚約者に何かご用でも?」
アルベルト・ウィスタリア公爵令息。
ユリアの新しい婚約者が麗しい微笑みを浮かべて、元婚約者を見下ろしていた。
ラファエルへと向けられた瞳は全く笑っていないが、一見優しげだから問題はない。
「は? 婚約者? ユリアの婚約者は俺だ」
怒りを顕にしたラファエルと、優雅に微笑むアルベルト。そして修羅場に巻き込まれてうんざりなユリア。
巻き込まれではなく当事者なのだが。
「とりあえず、ここは人目があるので移動しよう」
アルベルトの言葉にユリアは頷き、ラファエルも渋々歩き出した。
好奇の視線に晒されている三人は、空いている学習室へと入り対面するよう座る。勿論ユリアの隣にはアルベルトが座っている。
「それでユリア。どういう事だ」
「ドーラン様との婚約が解消された後、父はすぐにアルベルト様との婚約を決めたのですわ」
睨みつける視線をさらっと流し、簡潔に答えるユリア。
そして、婚約者でもないのにファーストネームで呼ぶのは止めて欲しいとも伝える。
「無理だとわかっていても、以前から婚約の打診を続けていたんだ。諦めなくて良かったと心から思うよ」
アルベルトの執念に運命の女神が微笑んだのか。愛する人を勝ち取った男の表情は自信に溢れている。
これでもかと勝ち誇っている、ようにラファエルには見えた。
「なんで……そんな簡単に……ユリアの想いはその程度だったわけ?」
浮気をした人が言っていい言葉ではない。仮に嫉妬して欲しくて、浮気の振りをしただけだったとしても。
自分の心を満足させる為に愛する人を傷付けるなど、男の風上にもおけない、とアルベルトは目を眇める。
「君は自分の事にしか興味がないのだな。ユリア嬢は私が幸せにするから今後は関わらないでくれ」
厳しい声音で言い切ったアルベルトは、優しくユリアの手を取り立ち上がらせ、エスコートするよう出口へと歩き出す。
「待て! まだ話は終わっていない! ユリア!」
ラファエルの怒鳴り声に、微かに震えるユリアを守るよう肩に手を置き引き寄せる。
「既に、全てが終わっている。後はご両親に確認しろ」
アルベルトの言う通り、既に決定された事だ。ラファエルが文句を言おうと何も変わらない。
ユリアは感傷を振り切り、アルベルトへと感謝の微笑みを向ける。
父が次の婚約者にアルベルトを選んだのは間違いない。
ただ、そうなるとわかっていて婚約解消したのはユリアだ。
アルベルトは公爵と爵位も高く、美形で穏やかな物腰は女性達に人気だ。
ラファエルのプライドを粉々にし、打ち負かす最高の当て付けだと思ったのも本当で。
そんな酷く失礼な考えも全て、アルベルトは受け止めて穏やかに微笑む。
「ユリア嬢。今すぐとは言いません。ゆっくりでいい。私を知って、愛してくれますか」
「……はい。わたくしも、アルベルト様を愛したいと、そう思っております」
遠い昔、ユリアに一目惚れし、既に婚約者がいる事に絶望して泣いた幼い頃。
それでも諦めきれず、ひたすらユリアだけを愛したアルベルト。
あの元婚約者との関係も、じっと見守ってきたのだから。
わかり易い高位貴族狙いの、ただ可愛いだけの女に靡いたラファエルに、最大限の感謝を込めて。
この腕の中の愛しい人を、永遠に失わないように。
アルベルトは幸せに満ちたまま、ユリアへと美しく微笑む。
その表情に、ユリアは嬉しそうに、恥ずかしそうに。言葉もなく頬を赤く染めた。