前編
今日はとてもうるさい日だ。
きっとこの雨のせいだろう。建物の屋根や木の枝についた葉にあたり駄々をこねた子供のようにはしゃいでいる。
そのわがままでずぶ濡れになるこちらのことも考えてほしい。僕は傘を持っていないんだ。
おかげでお気に入りのコートもびしょ濡れだ。
「アキ……」
そう言いながら服を引っ張る。彼女も僕と同じくずぶ濡れだ。いつものふわりとしたショートヘアも水の重さでしおれている。
「どうしたんだい」
「……」
彼女はいつものように無表情だった。
彼女も少しはこの駄駄っ子の雨を見習ってほしい。
そう思っていると彼女はまた服を引っ張った。どうやらついてきてほしいようだ。彼女の引く方向にはたくさんのアジサイが咲いていた。
僕をそこまで連れて行った彼女は、満開なアジサイの前にしゃがみ込み、じーっとそれを見つめた。ここはどうやら公園のようだ。その敷地を囲うように植物があり、その中の一部にアジサイが咲いていた。
「アジサイが見たかったの?」
そう言うと彼女はアジサイから目を離すことなく、ただ一回うなずいた。
「花、好きだったもんな」
そう言うとまた彼女はアジサイを見たまま一回、うなずいた。
「そんなにアジサイをにらんだらアジサイが怖がってしまうよ」
そう言うと彼女はうなずきもしなかった。
三メートルくらいずらりと並んでいるアジサイを僕は彼女に対抗するように端から眺めることにした。そうするとアジサイの列がちょうど終わったところにボードが立っていた。
上には掲示板と書いてある。
そこに貼ってある数々の資料の中に〝梅雨〟という文字を見つけた。
そうか、そういえば日本には梅雨ってものがあったな。長い間、外国を旅していたから忘れてしまっていた。
そう僕は世界中を旅してあるものを集めている。旅を初めてもう二十年は経ったかな。
そんなことを考えていると不意に服を引っ張られた。
「アキ……」
「もうアジサイはいいのかい?」
そう言うと彼女はコクリと頷いた。彼女は白のワイシャツに襟や袖の一部に赤いラインが入っているものを着ている。下は赤いチェックのスカートだ。そんな服装で雨に濡れたら下着が透けるのは当然だ。僕はお気に入りのコートを脱いだ。
「ほら、これで隠すといいよ。」
彼女はそのコートを見つめてそのまま停止していた。コートを受け取る様子もないので僕は彼女の肩にコートを羽織らせた。
このままでは埒が明かないからね。コートを脱いだ僕は使い古したセーターだけになってしまいとても寒い。
彼女はまるで不思議そうにそのセーターを眺める。
「君は寒くないだろうけど。そのあられもない姿はどうにかしなければいけないだろう。いくら君の胸が小さいからといってね」
彼女は何も言わない。
「昔の君なら怒るところだよ」
彼女は静かに首を傾げた。
「まあ、いいか。そろそろ行こうか。ヒイラギ。」
僕は雨の中歩き出した。
※ ※ ※
随分、歩いただろう。しかし、雨の中歩くのも限界だった。靴の中までもうビチャビチャだ。彼女は何でもない風に歩き続けている。たびたび水溜りで遊んだりもしていた。
僕は体力的にも限界が来ている。足が棒になるということわざがあるが、きっとそれは筋肉にもう力を入れられず骨だけで支えているからだと考える。
ソースは現在の自分だ。
周りを見ると店の一つもありはしない住宅街。雨宿りできる場所はなさそうだ。
「アキ……」
いつものように服を掴む彼女を見るととある建物を指さしていた。
「ん?コインランドリー?」
そこには赤い屋根の白い建物、屋根には看板があり汚れていてほとんど読めないが、そこには確かにコインランドリーと書かれていた。電気がついているとこを見ると営業はしているようだ。
「よく見つけたね。ヒイラギ」
僕はそう言って彼女の頭をなでた。彼女はコクリと頷いた。
僕らはそのコインランドリーで雨宿りをすることにした。
雨宿りと言っても代えの服があるわけでもないし、とうぶんあの雨は止まないだろうからまたびしょびしょになりながら歩かなければいけないのだろう。
周りを見ると稼働している洗濯機は一台もなく、自販機と背もたれのない長椅子が寂しく設置されている。彼女は長椅子にちょこんと座って天井を見上げている。
「風呂でも入りたいな」
財布の中を見ると五百円玉が一枚しか入っていなかった。僕は唯一の硬貨を自販機の中に入れて缶のコースープを二つ買った。おつりと品物を取り、片方のコーンスープを彼女にやった。そうすると彼女はその缶を不思議そうに見た。
「プルトップ缶の開け方も忘れてしまったのか?」
そう言うと彼女は少し首を傾げた。僕は冷えた体を温めるためにコーンスープを一口飲む。
突然、彼女が立ち上がりガラスの入口の方へ向かった。入口を含めた壁全体はガラス張りになっていて外から中は丸見えだった。僕らから見ると中から外は丸見えとでも言うのだろうか。彼女はガラスにへばりついたまま何かを見ているようだ。
「ヒイラギ、何を見ているの」
彼女は僕の顔を見た後、外を指さした。その方向を見ると独りの女性が雨に濡れながら突っ立っていた。ジーンズの短パンに半袖の青いパーカー、年は高校生か大学生くらいに見える。
折角、きれいに結ってあるポニーテールが雨に濡れて台無しだ。
彼女が指をさしながら僕の裾を引っ張る。きっと行こうと言っているのだろう。
「本当はもう少し雨宿りしたかったけれど」
まあ、ほっておくわけにもいかないか。
僕はしぶしぶ大雨の中にまた足を踏み入れた。
車が全く通らない道路をわたり、その女性のもとに行く。近くで見るとその女性は思った以上に若いようだ。きっと高校生なのだろう。
「どうかしたんですか。濡れてしまいますよ」
呼びかけても女性は黙ったままだったので雨の音に消されてしまったんだと思った。
「あの、」
再び呼びかけようとしたら、その女性はゆっくりと振り向いた。とても悲しい顔をしていた。
「何かごようですか?」
きれいな透き通った声なのにどこか冷たい。
「風邪を引いてしまいますよ」
「お構いなく、風邪をひくために濡れているんです」
そういうと僕から離れてスタスタ歩いてしまった。
彼女を見ると彼女は首をかしげて僕なんか気にせず女性を追いかけて行ってしまう。
彼女が追いかけるならしょうがない。僕も二人の後を追った。
女性はちらりとこちらを向く。
「ついてこないでください」
「しょうがないじゃありませんか。私のつれがあなたをとても気に入ってしまったんですから」
「つれ?」
女性が振り向くと比較的背の低い女の子を自分より年下だと思ったのだろう。
「そんなの知りませんよ。保護者なんだから何とかしてください」
一応、同い年なんだけどな。まー、保護者というのはあながち間違ってはいないか。
「まーまー、そんな邪見にしないでください。お話だけでも聞けたら何か役に立てるかもしれませんよ」
「そんなの無理です。私の願いは誰にだって叶えられません」
僕らはほとんど女性の真後ろを歩いていた。ほかの人から見ると三人が急いでどっかに行こうとしているようだ。
「いい加減にしないと、警察呼びますよ」
「どうぞご勝手に、警察を呼ばれて困るようなことしてませんし」
「してるじゃない!このストーカー」
彼女はもっとおとなしい人かと思ったのだけど。ずいぶんと気性の荒い人のようだ。
だってそうだろう。こんなきれいな人が左回りで回転しながら右足をあげて僕の左腕を思いっきり蹴るなんて想像できはしないだろう。
女性の蹴りで僕の左腕は高い金属音を鳴らした。
「え?」
その金属音は思った以上に甲高く響き渡る。まるで時が止まったようにその音以外に何もない。
音が鳴り終わったころ口を開いたのは僕からだった。
「痛いじゃないですか」
「えっ?その腕は……」
「ん?これは義手だけど……何か?」
「何かって……」
まー、驚くのも無理はない。日本じゃ義手なんて、めったに見ないからな。女性は驚きのあまり口が閉じないようだ。
「そんなに驚かなくてもいいじゃないですか。それとも蹴った拍子に足でも痛めましたか。それは申し訳ありません。しかし、蹴ってきたのはあなた、だからあなたにだって非はある」
義手を見て気圧されたのか。女性は急におとなしくなった。
「そのことは謝るわ。でも、追いかけてくるなんて……」
「失礼。でも、傘も差さずにあんなところでボーとして、悲しい顔を見せられたら何かとても深いお悩があるんじゃないかと思いますよ。そして僕はそれを叶えてあげられる。」
「何を意味の分からないことを……そんなの無理に決まってます。だって、私の願いは……」
僕はその女性に近づき目を合わせる。
「目を離さないで下さい。さあ、答えてあなたの願いは?」
「何するんですか。近いですよ」
そう拒む彼女の左肩を僕はつかんだ。
「マサヒコくんを助けたいですか」
今まで暴れていた女性の動きが止まる。
「なんで知っているの?」
僕は女性の肩から手を放し、距離をおく。
「僕は左腕がつけ根の部分からなくなっている、ほかにもたくさんのものを失った。でも、そのおかげで人とは違う力があるんだ。」
「力?」
「そう。たとえば僕は目を合わせればその人の望みが見える。あと、それを叶える力を持っているよ。」
僕らのやり取りで蚊帳の外になってしまった彼女が寂しそうに見えたので頭をなでてやる。
「それで私の願い、マサヒコは助かるの?」
「ああ。君が望むなら」




