8 今日のご飯は何だろう
服が決まり、マチルダによる治療が程なくして終了すると、レナは鎮静とリラックス効果があるという甘い薬湯を飲み干した。
そのまま寝台に身体をそっと横たえる。
疲れていたせいなのか、薬湯が効いたおかげなのかはわからない。あるいはその両方なのかもしれないが、シーツの海にやって来た微睡みの舟に、レナは迷うことなくその身を任せた……。
* * *
コツコツコツ
規則正しい足音がする。
コンコンコン
それからノックの音が聞こえてきて、レナは夢の世界から連れ戻された。
「部屋に入ってもいい? 少しは何か食べなきゃいけないと思ってね。全然起きないから心配していたのよ?」
艶やかな笑顔でドアの隙間から顔を出したマチルダは、レナが身体を起こすと台車と共に入ってきた。台車の上には食事がのっていて、キィキィと微かな音を奏でる車輪がベッドの横で静かになる。
「マチルダさま。ありがとうございます」
木をくりぬいてできた大きな器には、よく煮込まれた野菜のスープが入っていた。
揺らめく湯気とトマトの香り。赤いスープに浮かぶ彩り豊かな野菜たち。それらのすべてが、レナの空腹を呼び起こした。
「いただきます……!」
じっくりと煮込まれた色んな野菜が口の中で溶けていく度、張りつめていた気持ちも一緒に溶けていくような、とても優しい味がする。
夢中で食べていると、あっという間に器の底が見えてしまった。
「ごちそうでした! とっても美味しかったです!」
「どういたしまして。食欲があるなら大丈夫ね。顔色も良くなってきたし」
「本当にマチルダさまたちのお陰です。……あ、マチルダさまたちもお食事は済ませたんですか?」
何気ない会話だった。
明日の天気を尋ねるような、そんな当たり障りのない会話。
「まだよ。今日のメニューは野うさぎの丸焼きなんですって! 早く食べたいわ!」
それなのに、この質問がお互いの立場を鮮明にした。
「野うさぎの、丸焼きっ……?!」
忘れてはいけない。
ここにいるのは喰う者と喰われる者だ。
「うん、うん。そうよね、聞くだけで叫びたくなっちゃうわよね。お姉さん、その気持ちよぉーくわかるわぁ」
レナの裏返った声を「感嘆」と捉えたマチルダは、わざわざご丁寧に調理法を教えてくれる。
「下処理を済ませた後、オーブンでこんがり焼いて、この地方伝統の甘辛タレをかけるのよ。オーブンを開けたときの、あの香ばしい匂い……! ほっぺが落っこちそうなほど美味しいんだから! あー、想像するだけで、涎が……!」
「こんがり焼かれて……タレをかけられて……」
「レナちゃんも食べたいわよね? でもダメよ。いきなりガッツリ食べると、お腹がびっくりしちゃうんだから」
「た、食べたくないですっ!」
耐えきれずにそう言って、それからすぐに失言を悔いた。
レナは今、犬の獣人の姿している。犬の獣人は何でも食べるというが、肉も大好物だと聞いていた。もちろん野ウサギの肉だけが例外という訳ではなく……。
やはりマチルダは、怪訝そうに眉をひそめている。
「あら、どうして食べたくないの……? ああ、もしかして……」
「!」
犬の獣人に変化したと言っても、それは耳や尻尾や鳴き声といった、ごく一部の特徴が変わるだけのこと。身体能力や体質、嗜好、体型まではその作用は及ばない。
しかし種別を判断する最も有力な手がかりが、耳と尻尾の形状や鳴き声であり、また里秘伝の丸薬の存在は知られていないから、それで十分に誤魔化せるはずだった。
(でも絶対にバレないっていう保証はないよね……? どうしよう……余計なこと、言ったかも……)
丸薬による変化はあくまでも表面上のまやかしだ。獣型のレナを食べれば野うさぎと同じ味がするに違いない。
ドクンドクン……
マチルダの視線が肌に刺さる。鼓動は加速するばかりだった。
マチルダの真っ赤なルージュの唇から血が滴っているような幻覚が見えて、その唇が妖艶に弧を描いていくのを、レナは為す術もなく見つめていた。
(まさか、もうバレ……てる?)
レナ「長老っ……。もしかして私、食料的な意味で食べられちゃうんですか……? タイトルの意味を勘違いしてたかも……」
長老「バカ言うでない! そんな血の惨劇だったら、異世界恋愛からホラーにジャンル変えをしないとダメじゃろ!」
レナ「ホッ。良かったです。痛くもないし、血も出ないってことですよね? 安心しました」
長老「そ、それは……」
レナ「え……。どうして目をそらすんですか……?」