79 一緒に帰ろう
エピローグの章まであと1話。長くなったので分割しました。良いところで切れているかも(´;ω;`)
いつものように1羽と1頭が寄り添って過ごす、穏やかな夜の時間。
狼が微睡みに身を任せ、レナがひとしきり癒しの時間を終えた頃。
「ねぇ、狼さん」
突然囁かれたソプラノの声に、ラフィールは曖昧な意識を浮上させた。
風呂敷を纏っただけの無防備なレナは、地面に敷かれたもう1枚の上で、居住まいを正して座っている。
髪の隙間から覗くのは、長くて愛らしいうさぎ耳。
残念ながら尻尾までは確認できなかったが、それはラフィールがずっと求めていた姿、則ちうさぎのレナがうさぎとして、起きて動いている姿だった。
薄い布で隠された、秘密の場所を暴きたい。
耳と尻尾に触れたときの、甘い啼き声を聴かせてほしい。
そんな狼の欲望を知らないレナは、太腿も満足に覆えない布の端を、思い詰めた表情で固く握りしめていた。
「匂いでわかったと思うけど、私はあなたと一緒にいたうさぎのレナ。実は私、獣人なの。今回は、あなたにお話ししたいことがあって人化したわ」
ブン!
ラフィールは、尻尾を振って頷いた。
「それでね。私は明日にでも、ここを出るつもりでいるの。行く先は、私がメイドとして働いてきた領主館よ」
しばらくはしっかりとした口調で話していたのに、徐々にレナの声が小さくなって、目線が下に落ちていく。
「でも……。お仕事を辞めるとき、皆からあんなに温かく見送ってもらったのに、そう日にちも経たないうちにまた働かせてほしいだなんて、なんだかとても自分勝手な気がするけれど……。
私がお付き合いしていた男も、置き手紙まで残しておきながら出戻ってきた私のこと、どう思うのかしらね……」
そこでレナは、ハッとして口をつぐんだ。
人から傷つけられる前に、あらかじめ自分を傷つけて諦める ――そのための準備の言葉を、吐いてしまったことに気が付いたから。
決意したその日のうちに、別人に生まれ変われるほど、人は単純にできてない。錆び付いた無意識の改革には、相当な時間がかかるだろう。
それでも――。
強くなりたいと願う心は、間違いなく人を強くするから。
「私ったら、余計なことを言ったわね」
狼の頭を膝の上に導くと、レナは屈託なく微笑んだ。
ラフィールはレナの契約期間を知っていたから、彼女の辞職については納得した。狼ばかりの危険な森にいる経緯は未だによくわからないが、焦って問い詰める必要性も感じない。
「狼さんには何度も助けてもらって、とても感謝しているの」
小鳥の囀りよりも清んだ音色が、膝枕のラフィールには心地好く響いていた。
吸い付くような素肌の感触と、えも言われぬ甘い香りに、存分に酔いしれることが許されて。
「あなたには、群れの仲間がいないのでしょう? そして私は、あなたが大好き ――だから……」
一瞬呼吸を止めたレナを、ラフィールが見上げていた。
「だからこれからも、私とずっと一緒にいてくれる?」
ラフィールの答えは決まっている。
「ありがとう、狼さん!」
大好きな狼の同意を得て、レナは無邪気に喜びを爆発させた。
ラフィールの反応は、レナを安心させたのだろう。
「そういえば、さっき恋人のお話しをしたでしょう? 彼 ――ラフィールさまは狼の獣人で、あなたにとても良く似ているの。
ラフィールさまはね。仕事熱心で強くて、真面目で誠実で、格好良くて頼りになって、意地悪なときもあるけど優しくて……」
レナは熱に溶けたマシュマロみたいな顔をして、ついぞ聞かれたこともない惚気話を始めていた。
さて、ラフィールはというと、彼はこれしきのことで動揺するような、情けない男にはなりたくないと思っている。
彼は精一杯の渋面を拵えて、口もとを真一文字に引き結ぶ。はしゃぎそうになる尻尾と感情を必死になって抑え込んだ。
「でもね。私、フラれてしまったの。たまに、現実を忘れてしまいそうになるけれど……」
心を努めて空っぽにしていたラフィールは、最後にレナが付け加えた言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
フラれる? 誰に、誰が?
別れの時間さえ惜しんで、危険な任務に赴いたのは、レナの幸せに繋がると信じたから。
愛する女の幸せを、他人任せになんかしたくなかったから。
そんなラフィールが、レナとの別れを選ぶなんて、絶対にあり得ない。
しかしながら誤解される心当たりなら ――大いにあった。あり過ぎた。
「え? どこいくの、狼さん?」
レナが呼び止めても、ラフィールはチラリと振り返っただけで知らんぷり。
足早に闇へと消える黒い背が、あの夜の彼の姿に重なって、レナの胸が嫌な鼓動を刻み始めた……。
* * *
しばらくしてラフィールは、レナが血眼になって探していた結婚指輪を、口に咥えて戻ってきた。
杞憂に終わった不安に、レナは心から安堵する。
「これを取りに行ってたの? 私に返してくれるの?」
勢いよく頷かれて手を出せば、そこに指輪が乗せられる。
左手の薬指だけを、器用に噛まれたのはその直後。
「ひゃん!」
びっくりして変な声をあげたレナに、ラフィールは目だけで訴えた。
『は・め・ろ』
そんな空耳が聞こえたような……。聞こえなかったような……。
レナは率直に確認する。
「今すぐに、はめれば良いの?」
ブン!
「それなら、もう指を噛まないでね?」
ブ……ブン!
はめる資格があるものか、レナは少しだけ迷っていたが、結局は狼の意向に従った。
久しぶりにはめた結婚指輪。
シンプルでありながら洗練されたデザインが、レナの繊手によく映えて、曇りのない白金は、彼女の薬指で一等強く輝き出す。
絶望に塗りつぶされたあの日。
ラフィールは深夜の訪いを厳しく注意はしたものの、レナをそのまま帰らそうとはしなかった。
ラフィールは彼の寝台で、レナが眠ることを望んだはず。
でもレナは、恋人の匂いがするだけの、脱け殻の寝台が怖かった。
物足りない口づけだけを残して去ったあの人の、逸らされた眼差しが悲しくて、話を聞いてもらえなかったことが寂しくて、どうしようもなく苦しかった。
それらはすべて、いつもラフィールに甘やかされてきたレナにとっては、残酷な仕打ちだった ――けれど……。
レナの「狼さん」は、また戻ってきてくれた。
雄うさぎを岩陰に連れ込んだときも。そしてさっきも。
表面上はレナが拒絶されたと勘違いしてしまうほど、ひどく薄情に見えたけれど……。
待ち続けたレナのもとに、帰って来てくれた。
「もしかして私、まだ失恋していないのかも……?」
その可能性に思い至り、レナがふと顔を上げれば、強い光を宿す琥珀色の瞳と、真正面からぶつかった。
あの夜の悲しきラフィールの残像が、時も場所も飛び越えて ――今ようやく振り返る。
あれだけ深かった絶望の靄の正体は、何のことはない、レナの目が曇っていただけのこと。
最初から諦めるつもりで始めた恋に、お誂え向きの筋書きを当てはめた。悲劇のヒロインでなければ耐えられないと、無意識にその役を受け入れて。
突然奈落の底に落とされるよりも、達観したふりをして、予想した未来を進み続ける方が楽だったから。
次話でついにレナが……!




