72 愛する人が彷徨う森へ
レナの話を聞いていた院長は、しばらく瞑目した後、「ついてきてください」とだけ静かに言った。
向かった先は、修道院の地下工房。
「すごい……!」
部屋に足を踏み入れた瞬間に、レナは感嘆の言葉を口にしていた。
四方を取り囲んでそびえ立つ、多種多様な薬草の壁。
中央には大きな机があって、乳鉢や薬匙等の製薬道具や石鹸作りの道具がまとまって置かれている。
レナが落ち着かなく辺りを見回している間にも、院長は壁一面を埋め尽くす棚から、薬草の入った硝子瓶を手にとっては、必要な分量を取り出していった。
――そのまま使えるものはそのままで。調合が必要なものは、手際よく調合して。
机の上に薬の小島ができたとき、院長はレナの瞳を真正面から見つめて言った。
「慣れない旅には苦労がつきもの。森の中では体調を崩しても、医者にかかることはできません。どうか、こちらをお持ちください。
どれもこれも薬効の高いものばかりです。きっとレナさんの、旅の助けとなるでしょう」
院長はレナのすぐ隣に位置を変えると、調合した薬や薬草について説明しながら分包する。
そのときに、見慣れない種類の薬草は、この集落周辺でしか採れない、とても稀少なものだと判明した。
「ウォルフの森には、やはり世間に知られていない素晴らしい薬草があったんですね。でもこんなに沢山……。本当に良いんですか?」
戸惑うレナに、院長は柔和な笑みを唇にのせた。
「どうやらレナさんは薬草に詳しいようですね。
ここは陸の孤島。たしかに世間には知られていないものも多くあるかもしれません。
けれど持っていかれるのを、気に病む必要はありませんよ。集落で使う分は、充分に残してありますから。 ――あと、こちらもどうぞ」
「これは桜桃? それにしては随分と大きいみたいだし、時期が……」
艶やかな赤い実が、レナの掌に乗せられた。
指でつまむとぷるんとした弾力があり、大きさは胡桃よりも少し大きいくらい。
「この果実は、ウォルフの森でも当修道院周辺にしか自生しない、とても貴重なものなのです。栄養価が非常に高く、食べれば1日分の活力となるでしょう。
私が子どもだった時分には、風雪に耐えて実を結ぶ奇跡の果実として、生活に彩りを添えてくれたものですが……」
院長は息を継ぐ。
「――最近では、すっかり採れなくなりました」
寂しい話を聞いたレナは、赤い果実に視線を落とした。
一宿一飯の恩義に、薬草のお餞別。これ以上の厚意を受け取って良いものなのか、レナはまたしても躊躇いを覚えてしまう。
「通りすがりの旅人の私が、このように貴重なものをいただくのは、とても畏れ多いことだと……」
「良いのですよ」
院長はすべてを言わせずに、熱心な伝道者としての一面を覗かせた。
「不思議なことに、昨日突然、修道院の周りに鈴生りに実っていたのです。
こんなことは、修道院に賛美の歌が幾重にも響いていたとき以来、久しぶりのこと。
今ならばわかります。レナさんはか弱いうさぎの身で、困難な道を行こうとしている。私には、神が慈悲の実りをもたらしてくれたのだと、そう思われてならないのです。
ですからどうぞ、いくらでも。ご遠慮なくお持ちになってくださいませ」
「そういうことでしたら……」
院長の話は俄には信じがたかったけれど、食いしん坊のレナにとっては、本当はとてもありがたい申し出だった。
嬉しい気持ちを上手く隠せないのは、レナにとってはいつものこと。
でもそれを見た院長は、奉仕の精神でもって、要らぬ言葉を付け足した。
「味は淡白なお肉のようで、頬が落ちそうになるくらい美味しいですよ。私も久しぶりに何個かいただきました」
「お肉……味……淡白……」
(淡白な味わいとされるお肉は……鳥とうさ……)
「レナさんもお肉がお好きでしょう?」
不吉な想像をしていたレナは、びっくりして肩を跳ねさせた。
「え?!」
院長は足下に置かれていた籐の籠を、机の上に持ち上げた。中には貴重なはずの赤い果実が、どっさりと山盛りに入っている。
「そんなに驚かれることもないでしょうに。
レナさんが最後まで大切に取っておいたお肉を、元気一杯に召し上がっていらしたのを、昨夜私も目の前で見ておりましたから。草食の獣人にしては珍しいとは思いますが、食文化には地域差がありますものね。
さぁ、持てるだけ持っていってくださいな。神のありがたいご配慮を、無駄になさいませぬように……」
少なくとも院長が垣間見せた嗜好の一端は、レナを激しく動揺させた。
ここまで親切にしてくれる人が、まさか獣型になった途端、牙を剥くなんて思いたくはないけれど……。
『院長は……どちらの種族なんですか……?』
喉まで出かかった疑問は、意味がないと飲み込んだ。
うさぎのレナが、これから足を踏み入れるのは弱肉強食の修羅の道。
年老いた院長から逃れられないようでは、これから先、狼ばかりの森を生きて通り抜けられる見込みはない。
――どんな結末になろうと、男の欲望に肌を暴かれるよりはマシなはずと、獣型での旅立ちを決めたのは自分自身なのだから。
レナが恐怖を決意で塗りかえている間に、院長は近くの棚から2枚の布を取り出した。
緑色の布地に白い蔦模様。正方形のしなやかな布。
「これは何ですか?」
「遠い国の風呂敷というものです。天候を気にせず使えるように、水を弾く加工を施しました。持ち運びたい物に合わせて、自由自在に形を変えられるので、とても便利なのですよ」
そう説明した院長は、薬草と赤い果実を布の上に置くと、折ったり結んだりして、器用に背嚢の形を作り出す。
魔法を描くにも似た軽やかな指先に、レナはすっかり魅せられていた。
院長は言う。
「出発は少しでも早い方がいいでしょう。いくら獣型には天然の毛皮があるといっても、さすがに夜の寒さは厳しいかと。
それに吹雪の方が視界も悪く、足跡や匂いも消えやすくなりますから、急ぐ旅でなければ、むしろ荒れた天候の方が安全かもしれません」
馬のおじさんには、院長が突然の旅立ちについて伝えてくれることになり、方位磁針と森の詳細な地図も、風呂敷の中に入れてもらった。
そしていよいよ、レナは獣型へと変化する。
ドロン!
「なんて可愛らしい……」
院長は音が聞こえるくらいに喉を鳴らすと、淡い茶色の小さな背中に、風呂敷の背嚢を背負わせてくれた。
(重くはないけど、大きいわ)
これはだいぶ歩きにくい。
「風呂敷に手足が生えているみたいですね」
院長は若干失礼な感想を漏らしただけで、中身を減らすつもりはなさそうだ。
(里までの長い距離を、これを背負って最後まで歩けるかしら?)
レナは少しだけ不安になって、指輪の入った巾着を、無意識のうちに握りしめた……。
* * *
こうして指輪以外のすべてを修道院に寄付したレナは、親切な院長に別れを告げた。
指輪だけは、これからもずっと一緒。
そして野うさぎとして1人旅立つ。
――愛する恋人が彷徨う、ウォルフの深い森の中へと。
ラフィ「唐草模様の風呂敷を背負うって、お前は由緒正しい泥棒か? 前々から思っていたが、レナは与えられるものを疑問なく身に付けるよな。それがどんなにダサくても」
レナ「でもせっかくのご厚意なので……。ダメですか……?」
ラフィ「いや、お前はそのままで構わない。カタリナさまみたいに洗練された女性だったら、俺もこんなに、世話を焼こうとは思わなかった。放っておけないからこそ、いつの間にか好きになっていたんだ」




