71 究極の選択
修道院銘柄の、貴重な薬草を使った加工品 ――例えば薬草茶や石鹸等―― をウォルスタの街で卸してきたおじさんは、その分の代金と街で購入してきた日用品の一部を、院長になるべく早く渡してあげたいのだと説明した。
飴色の扉をノックすると、修道服とヴェールを纏った高齢女性が現れる。
(おじさまの仰る通り、お優しそう……)
臆病なレナはいつでも相手の種族を気にしていた。けれど判断の基準となる耳と尻尾が衣服の中に隠れていては、種族の確認は難しい。
(でも雰囲気的に、草食の獣人の方みたい……)
おじさんが口を開き、レナの思考が中断する。
「ただいま、戻りました」
「お帰りなさい。こんな天候では、大変だったでしょう?」
「ええ。雪はともかく風が厄介で」
「ところで……そちらのお嬢さんは……?」
話題がこちらに向いたので、レナはおじさんの斜め後方で会釈した。おじさんは少し決まり悪そうな顔をする。
「街で助けたら、懐かれてしまったみたいです。ワシに付いてくると言って聞かなくて……。
でもこの集落には宿もないし、しばらくここで面倒を見ていただけたらと思ったのですが……」
「まぁ……」
おじさんの雑な説明でも、院長はレナに同情してくれたらしい。
「あなた、お名前は?」
「レナと申します」
「1人旅なの?」
「はい」
「女1人では色々と苦労もあったでしょう。いつまでも立ち話も何ですから、さあ早く。中に入って、お休みください」
「! ありがとうございます!」
歩みさえ止めなければ、助けてくれる人には必ず会える。神さまは、きっと空から見ているのだ。
こうしてレナは幸いにも、野宿だけは免れた……。
* * *
修道院の建物はかなり老朽化していたが、中はよく補修され、掃除も行き届いている。
皺だらけの手に導かれ、入ってすぐの礼拝堂で、レナたちは跪づいて祈りを捧げた。
厳かな静謐から先に抜け出したおじさんは、手慣れた様子で街から運んできた荷物と、レナのトランクケースを修道院の中へと運び込む。
居住空間にある使い込まれた暖炉に、おじさんが豪快に薪を放り込むと、炎が一気に大きくなった。
パチパチと爆ぜる上に、院長は厚手の小さな鍋をそっと乗せる。
すぐにクツクツと美味しそうな音が重なって、湯気が天井へと昇っていくのを、レナは惚けたように眺めていた。
暖かな部屋で、パンとシチューをいただく時間。
――それはとても穏やかで幸せなとき。
思い返せば、ここ2日間で色んなことがありすぎた。
黒猫の先輩メイドに発破をかけられ、丸薬を落としてしまったのに、頼りのラフィールには拒まれた。
しつこい狼の男を振りきろうとした結果、ウォルフの森の奥深くの、時代から取り残されたような修道院で、お泊まりすることになるなんて。
小さく刻まれたじゃがいもや人参が、口の中でほどけていく。
レナは久しぶりに人心地ついた気がした。
ふと食卓からカーテンを開けて外を見ると、窓硝子は真っ白に曇っていた。
この曇り硝子の向こうには、集落を囲むように広大な森が広がっているに違いない。
何も見えないのが嫌で、くるくると円を描けば、闇が濃くなってレナの指先に水の冷たさがのり移った。
白が黒くなっただけ。
ほとんど何も見えないまま。
ウォルフの森は野生の狼が棲まう場所。どこかから狼の遠吠えが聴こえてきて、レナは耳を塞いで追い払った。
ラフィール以外の狼は怖い。
うさぎのレナは、いつ食べられてしまうかわからないから。
(私、無事に帰れるのかしら)
昼間のことが思い出され、レナは密やかに嘆息した。また目の前が景色が白くなる。
それは見通せない先行きと同じ……。
「じゃあ院長。また来ますね。男手が必要なときは、いつでもワシをお呼びください」
おじさんの帰る気配がして、見送りを終えた院長がレナの前へと腰かける。
院長は年若いレナにも丁寧な対応をしてくれるので、それがほんの少しだけこそばゆかった。
「お口に合いますか?」
「はい、とってもおいしいです」
「大したおもてなしもできませんが、2週間、ゆっくりと過ごして下さいね」
「2週間……」
おじさんが次に街に出るのは2週間後。
(また街に出ないといけないのね)
犬姿での旅が今日の結果なら、うさぎ姿での旅は一体どうなってしまうのか。もう変化の丸薬は1粒たりとも残っていない。
もちろん長い耳とまぁるい尻尾は、全力で隠すつもりでいたけれど……。
街は怖い。都会なんて行きたくない。
(もしもバレてしまったら?)
気温のせいではない寒気が走る。スプーンを持つ手が震え、皿にぶつかってカチリと鳴った。
それなりの規模の街に出ないと、故郷までの道は繋がらない。そんなことはわかっている。乗り合い馬車は主要な街道を走るものだ。
残り少なくなったシチュー。
その中央に浮かぶ小さな肉。
「…………」
レナは少し考えた。
肉はできる限り食べたくないが、出された食事を残すのも……。
一欠片しか入ってないくらいだから、きっと肉は貴重なのだ。
(これは何のお肉? まさか……うさぎ……?)
レナは喋れない肉と睨み合う。
「どうかしましたか?」
「…………」
「レナさん?」
作り置きのシチューに肉 ――つまりは院長は肉を問題なく食べられる人なのだろう。
(まさか院長も……狼……?)
レナは更に思考を深くする。
例えば――。
行きずりの狼に汚されて、自ら人生に幕を下ろすよりも、ただの食料として狼に食べられてしまう方が、まだずっとマシ ――なのではないかと。
結果は同じでも、絶対的に過程が違う。
どんな風になっても生き抜くこと。
その尊さがわかるほど、レナはまだ、大人ではなかったから。
(そうよ。街が怖いなら、獣型で森を通って帰れば良いんだわ!)
街と街を繋ぐ街道をまるっと無視して、ウォルフの森を直線で抜けていけば、最短距離で帰ることができるはず。
脳内で描いた地図に、レナはまっすぐな線を引いた。翼が生えた心は、故郷ラビアーノへと軽々と飛んでいく。
レナは、恋人にかつて忠告されたように、苦手な肉を飲み込んで、明日の活力を蓄えた。
「ごちそうさまでした!」
レナは精一杯の感謝を込めて、大きな挨拶と共に食事を終えた。
* * *
丸薬を飲まない朝を迎えたのは、久しぶりのことだった。
昨夜出した結論を、変えるつもりは毛頭ない。
もともとレナは、ラビアーノで意に染まぬ結婚を強いられたなら、野うさぎとして生きようと決めていたのだ。
それが少し。ほんの少しだけ。
早くなっただけのこと。
(昨日は風が気になって、あまり眠れなかったわ)
白く凍てついた風が、今も窓枠を揺らしている。
「おいでおいで」と遊びに誘う、ひどく自分勝手な子どものように。
レナは院長が用意してくれた修道服とヴェールを身につけると、朝の礼拝を行った。うさぎらしい耳と尻尾をすっぽり隠すことができるこの格好は、レナにとってはありがたい。
朝食を済ませて少し落ち着いた頃合いに、今からでも、獣型で旅立つことを申し出た。
あまりにも乏しい反応は、かえってレナを焦らせる。
――街で怖い思いをしたことから、本当はうさぎ獣人であること等、話す予定のなかったことまで、洗いざらいぶちまけてしまう程度には。




