69 帰りたい場所がある
前半ラフィール、後半レナです。黒猫の先輩メイドの真実もあります。ラフィールは引き続き、棺桶に片足を突っ込んでいますが……大丈夫です!
ラフィールは肩で大きく息をしながら、ゆっくりと辺りを見回した。血と死を含む冷たい匂いが、乱暴に鼻先をかすめていく。
(俺の役目は……ここまでだ……)
たった独りで残った彼は、カタリナ母子にかかる追っ手を大幅に減らすことに成功した。
彼女たちは無事に領主館に着くだろう。
強く美しいうさぎの女を、母に選んで生まれた子は、フォレスターナの暗い時代を終わらせる、曙光となるに違いない。
ラフィールはその手伝いができたことを、とても誇りに思っていた。
(俺も……帰らなければ……)
けれど歩き出してすぐに、均衡を崩して雪に沈む。
焦燥が空回りして、自由にならない身体が怖くなった。
獣型では止血さえもままならず、雪に霞む視界と朦朧とする意識では、どこを歩いているかもわからない。
雪と闇の底を彷徨い続けるラフィールに、ウォルフの森が夢を見せた。
『ラフィール。絶対に死ぬなよ。お前にはレナさまを支えるという、大切な役割が残っている』
体温を奪う風に、領主によく似たガイゼルの声が忍び込んだ。歩みが牛よりも遅いのは、亡者がラフィールの脚を掴んでいるから。
『あ……待って……。お話が……!』
愛するレナが、ラフィールの横を通り過ぎた。思わず振り返って、目に映る景色に後悔する。
幻だ。
こんなところで立ち止まるべきではない。
それなのに、あのとき手放したはずの温もりが、今さら欲しくてたまらなくて。
(レナ……)
欲望のままに掴んだ雪は、レナの流した涙に化けた。可笑しくもないのに、笑いが込み上げて喉が引き攣る。
そのとき天使が近づいて、ラフィールの耳元で囁いた。
『お前の亡骸の上で、愛する女が幸せに暮らせるならば、それこそ男の本望じゃないか』
――最上の愛の形。それは自己犠牲なのかもしれない。
(カタリナさまが王妃になれば、うさぎ獣人も堂々と暮らせる世の中になるだろう……。せめてレナだけでも、生まれ変わった国で、新しい幸せを……)
新しい幸せを……。
幸せを……。
願ったはずの幸せに、顔の見えない男が寄り添った。
(俺がいなくなったら、レナは――)
狼の執着は侮れない。
獣になったラフィールは、痛々しい血の道を引きながらも、気力と本能に頼って歩き続けた。
もうレナは、領主館にはいないのに……。
――それでもラフィールは、レナのもとへ帰ろうとした。
* * *
時は少し遡り――。
レナがラフィールの寝台で迎えた朝。
それは彼女の人生で、1番切ない朝だった。
昨夜はありったけの勇気をふりしぼり、ラフィールの部屋を訪れたものの、彼はちっともレナの話に耳を傾けてはくれなかった。
任務の内容を聞けたなら、レナは領主館に残る気になれたのかもしれないけれど――。
胸を締め付ける寂しさが涙となって溢れ落ち、顔を埋めた枕に、染みがじわじわと広がっていく。
(こんな別れになるなんて……)
レナは本当に本当に。
ラフィールのことが大好きで大好きで、大好きだったのに。
彼との夜を積み重ねてきたレナは、何も知らなかった頃の自分には戻れないとわかっていた。
愛しい恋人の存在さえ感じられれば、その脱け殻に抱かれるだけで、夢に溺れる自分が恨めしくて……。
せめて最後の思い出に、壊れるほど激しく、彼に愛してほしかった。
満たされない心と身体を抱えながら、レナは最後の丸薬を口に含む。
噛み砕いた丸薬はいつもにも増して苦くって、飲み込むのがとても辛い時間に感じられた。
それからのレナは東棟に戻って、お世話になった人たちにお別れの挨拶をしなければならなかった。
事情を聞いたメアリ婆さんは小さな瞳を潤ませて、老医師ゴードンは己の不甲斐なさに号泣した。
黒猫の先輩メイドは目を合わせてもくれなくて、レナが勇気を出して話しかけてみれば、彼女は小さな声で「ごめんなさい」とだけ呟いた。
レナはまったく知らなかったが、実は先輩メイドは第1第2王子の手の者に、領主館の様々な情報を流していた。
向こうから要求があれば、騎士たちに甘い罠を仕掛けて、求められるがままに情報を抜き取った。
彼女には金が必要だったのだ。
メイドの給金だけでは賄えない大金が、王都で高度な治療を受けている、病気の弟のために。
そんな先輩メイドのところへ、昨夜何の前触れもなく騎士アーダンが会いに来た。
彼は猫獣人好きの脳筋だが、会えばいつでも弟のことを気に掛けてくれる、とても気の良い男だった。
それに彼女が他の男の匂いを纏っていても、彼は気にする様子もない。
腰抜けなのか間抜けなのか、自分も女遊びをしているからか。その答えはわからなくても、彼女もまた、彼と同じように気になんてしなかった。
先輩メイドにとって、アーダンはただの道具。
なぜならば彼女の目当ては、難攻不落の彼の上司ラフィールだ。
危険な任務を得意とし、領主の信頼が厚いラフィールの情報は、いつだって高値で売れたから。
ところが束の間の逢瀬が終わるとき、アーダンは彼女に封筒を手渡した。
そこには少なくない現金が入っていて……。
受ける覚えがまったくない善意に、さすがの彼女も戸惑った。
そのときに彼は言ったのだ。
『もう危険なことはやめた方が良い。弟が悲しむ』と。
そしてアーダンはラフィールら数人の騎士と共に、領主館を後にした。「生きて帰れないかもしれない」と、垂れ気味の目を寂しそうに細めて。
アーダンの真摯な愛情は、僅か一晩の間に先輩メイドを変えてしまった。彼女は己が仕出かしてきた、今までの軽率な行いを反省する。
もちろん彼女は王家の後継争いに、直接関与する立場にない。それに流してきた情報も、素人目ではほとんど価値を見出せないものばかり。
それでもラフィールたちが受けた今回の危険な任務と、先輩メイドが流出させた情報が、完全に無関係であるとは思われない。
もし彼らに何かあったなら……?
別れを選んだレナにどのような事情があるか、先輩メイドにはわからない。
けれどどう考えてみても、未だ深く愛し合っているように見える恋人たちを、生と死の両岸に引き裂くような残酷な真似をしてしまったこと。
真実の愛で頬をぶたれた先輩メイドは、道義的な責任を感じざるを得なかったのだ……。
一方でレナは、先輩メイドの謝罪をほっこりとした気分で聞いていた。
今まで散々後輩に仕事を押し付けてきたことに対する懺悔なのだと、どこまでも平和な勘違いをしていたレナは、先輩が別れ際に見せてくれた誠意を、とてもありがたいものだと感じたから。
「気にしないでくださいね」とニコニコ笑顔で返した彼女に、背負ってきたものに耐えきれなくなった先輩メイドは、まるで幼子のようにすがりついて咽び泣いた。
レナは自分より背の高い先輩を、落ち着くまで優しく優しく抱きしめた。
ちなみに領主館では、メイドのことはすべて、メイド頭であるメアリ婆さんに任されている。
今回の退職についても、書面決裁という形で処理するため、旅立つレナが領主に目通りすることは叶わなかった。
狼の領主はレナのことを、とても気にかけてくれていたのに……。
娘のような彼女がいなくなったら、彼もまた深く悲しむことだろう。
レナ「先輩は黒猫の獣人なのに、間者だったなんて!」
長老「うむ。黒猫ねーさんは末端の情報源の1つに過ぎん。敵も他からの情報を精査してこそ、カタリナたちの居場所を突き止めることができたのじゃろう。ダブル王子ズは汚い手段が得意じゃからな。きっと他にも黒猫ねーさんみたいに、利用されている人がいるんじゃろうな……。
気の毒な事情があったようだし、これからはアーダンと幸せになってほしいもんじゃ」
★ 先輩メイドが以前レナに後宮入りを勧めたのは、恵まれた容姿をもちながら、ラフィールに一途過ぎるレナのことを勿体ないと考えたからです(先輩はあくまでも一般的な美人)。
男女の愛にやさぐれていた先輩は、自分がレナみたいな容姿だったら、後宮入りして金と権力をその手に握り、こんなスパイの真似事なんてせずに弟を救ってやれるのに! と思っていました。
でも悲しいことに、自分はレナほどの美人じゃない。だから必ずや寵愛を得られるだろうレナを後宮に入れてしまい、せめてその紹介料的な褒美だけでも貰いたいと考えていました。けれどその計画も、ラフィールの目が怖くて頓挫しました。
 




