68 裏切り
過去最高に長くなってしまいました……。
【注意】流血シーンがあります。
雪と闇に沈むウォルフの森。
その底を、黒き狼が孤独に彷徨い続けていた。
獣を祖とする獣人には、共通して、ある特性があるという。
――それは、獣型の方が自然治癒力が高くなり、命の危機に瀕したときには、人型を保てなくなるというものだ。
この漆黒の狼は、未来の王妃の実妹が、どんなときでもどこにいても、一生愛し続けると心に決めた、勇敢なる若き騎士の傷を負った姿だった……。
ラフィールが歩く度、雪の上に鮮やかな赤が落ちていく。
ぽたりぽたり
けれど今は、草木も眠る夜の深淵。
雪に散った血の跡も、闇の中ではわからない。
そして明日の朝には、雪が綺麗に消してしまうのだろう。
ラフィールの命の灯火とともに。
(これは……今までで……1番ヤバイな……)
獣型は寒さに強いはずなのに、不気味な寒気が止まらなかった。それでいて傷を負った部分だけが、異常な熱を帯びている。
返り血で固まった黒い毛皮。
それを絶え間なく濡らすのは、吹き付ける雪か、それとも己の血なのか。
それさえも、もうわからなくなっていて。
(まさか……奴らが……。くそっ……!)
ラフィールが毒づいて歯を食い縛ると、咥内にすっかり慣れた鉄錆の味が広がった。
苦々しい記憶を、痛みとともに引っ張り出さなければ、彼はもう意識さえも保てない。
――「死」が、いよいよラフィールの間近にまで迫っていた。
* * *
稀少なうさぎの獣人であり、第3王子の妻であるカタリナは、産前から長らく閉じ籠りきりの生活を送っていた。
そんな毎日を過ごしていては、当然のことながら、体力の低下は避けられない。
それでも現役の騎士さえも困難を極める道のりを、カタリナは黙々と歩き続けていたのだが……。
雪雲に隠された日が沈む頃、遂に彼女は動けなくなってしまった。ふくらはぎがひどく腫れ、豆が潰れて、痛みで一歩も歩けない。
以後は騎士たちが交替で、カタリナを背負って進むことに。
言葉は悪いが、大きな荷物が1つ増えた。
ちょっとしたことで目を覚ます癇の強い赤ん坊の泣き声は、目の粗い鑢をかけたよりも容赦なく、大人たちの精神を摩耗させていく。
苦労を分かち合った時間は、俄仕立ての一行に、確かな感情の結び付きを与えたように見えたけれど……。
ラフィールが針の森で見る地獄は、これからが本番だった。
日付が変わり、ファルークに遣わされた虎の武人のうちリーダー格の男が、まとまった休憩を取りたいと申し出た。
一行を指揮する立場であるガイゼルは、全員の疲労の程度を勘案し、その要求を受け入れる。
ラフィールたちは2、3メートルほどの崖を風除けに、梢や幹を利用した簡単な天幕を張ると、真っ先にカタリナと赤ん坊を中に入れた。
人知れず生まれた黄金の獅子に、乳母はいない。
カタリナは雪の夜の寒さに震えながら、疲れとストレスのために出が悪くなった己の乳を、辛抱強く赤ん坊に吸わせなければならなかった。
時折、幕をめくるほどの強い風が吹きつけるので、彼女も赤ん坊も落ち着かない。
そして任務遂行を最優先とするガイゼルも、このときばかりは男たち全員に、天幕に近付かないように指示を出した。
カタリナと赤ん坊の傍らには、ゴリラのおばさんだけが残される。
――なぜならば、たとえ風の悪戯のせいだとしても、未来の王妃の柔肌を見ることは許されないと、ガイゼルはそのように考えていたから。
疲弊した心身に、護衛から離れる大義名分が与えられ、休憩という甘い誘惑に引き込まれそうになる生理に、人はおそらく逆らえない。
それを「気の緩み」と片付けてしまうには、男たちはあまりにも疲れすぎていた。
狙われたのは、そんなとき。
悲痛な叫びと、それを上回るほどの甲高い泣き声が、警報の如く響き渡る。
ラフィールたちが駆けつけたときには、おばさんはその背中から大量の血を流して踞っていた。
身を呈してカタリナたちを庇ったことの証左に、おばさんはカタリナ母子にしっかりと覆い被さっていて……。
立っていたのは、休憩を申し出た虎の武人。
その手に握られた大振りな剣には、血が――。
カタリナの夫 ――第3王子ファルーク直筆の文書を携えて、領主館に派遣されてきたはずの彼が裏切るなんて、誰が想像することができただろう。
ラフィールたちは呆然と立ち尽くした。
しかしすぐに気持ちを切り替えて剣を取る。
虎のリーダーと対峙する騎士たちの左右から、残り2人の虎の武人が襲い掛かった。
気がつけば、ラフィールたちは雪の森で囲まれていた。
崖の上、木立の間、幕の影。
至るところに覆面をした人、人、人。
気配が全くしなかったのは、相手が殺しの専門家だからに違いない。ラフィールがざっと確認できただけでも、その数およそ20人。
「お前たちにはここで死んでもらう……1人残らずな!」
おばさんの血を滴らせた剣を舐め、虎の武人が吠え猛った。その目はギラギラとした獰猛な光を宿していて、まったく正気とは思えない。
おばさんが苦痛に顔を歪めて絶叫した。
「どうしてだい! ファルークさまはカタリナさまと坊やを見捨てたのかい!」
男が下卑た笑いで突き放した。
「馬鹿め! 俺たちは途中で本物の遣いと入れ換わったんだよ! 奪い取ったクソ王子の文書と、何よりも俺たちが虎であるというだけで誰も疑いやしねぇ! 滑稽なことだ!」
第1、第2どちらの王子の刺客か、或いはその両方なのかはわからない。
ともかく獅子の男児が産まれたことが、既に相手方に知られていたと考えるのが妥当だった。
国王宣下で正式となるものの、獅子の男児が産まれた時点で、第3王子が立太子されることはほぼ確実。
それはつまり3人の王子たちの間に、明確な差ができたということを意味していた。
ファルークが立太子された後、次々代の国王に刺客を差し向けたことが白日のもとに晒されれば、第1、第2両王子と言えども、決して死罪は免れない。
――だからこそ、奴らはラフィールたちを必ずや皆殺しにするつもりなのだ。
「さあ、抵抗しても無駄だ……安らかに死ね!」
味方で戦えるのは、狼の騎士たち6人と、唯一裏切っていない虎の護衛騎士1人。合わせて7人。
ラフィールは考えた。
歩けないカタリナと赤ん坊、負傷したおばさんを守るために人手がいる。残りの人数で正面から戦うには分が悪い。おばさんの傷は深く、早めの治療が必要だ。奴らの囲みを突破するにしても、隙があるのかどうか……。
だから敵から視線を反らさずに、彼はガイゼルに申し出る。
「私が敵を引き付けます。その間にカタリナさまたちを連れて、なるべく遠くに」
攻撃を得意とするラフィールと、守りの達人であるガイゼル。
ラフィールは自分が暴れている隙に、カタリナと赤ん坊を逃がしてほしいと。彼は己の剣の師匠に、そう頼んだ。
ガイゼルは絶句したのち了承した。
この状況は絶望的。
任務の遂行を果たすという点だけを考えれば、情を捨て、最も成功率が高い方法を選ぶ必要がある。
「ラフィール。絶対に死ぬなよ。お前にはレナさまを支えるという、大切な役割が残っている」
非常事態に頭が遂に狂ったのか、ガイゼルはなぜか一介のメイドに過ぎないレナを敬って呼んだ。
(未来の王妃たる、カタリナさまの妹だから?)
けれど今のラフィールに、質問をする余裕なんてある訳がない。
「私は死にません。絶対に」
ラフィールは己の宣言通りに、敵中に飛び込んだ。斬って斬って、ただひたすらに敵を斬り伏せて、敵の目を引き付けた。
雪に舞う血飛沫も、怒号も、赤ん坊の泣き声も。
真っ白な闇がその懐に包み込んでは消していく。
ガイゼルもまた、弟子であるラフィールの奮闘に応えてくれた。カタリナたちと無事に逃げ出すことに成功する。
次はラフィールが約束を守る番だった。
(俺は絶対に死ねない。レナが俺のことを待っている)
やがて剣は歯こぼれを起こした。
ラフィールは転がっている敵から武器を奪い、それを何度も何度も繰り返す。彼の身体に徐々に傷が増えていった。
(キリがない……何人いるんだ?!)
所詮は多勢に無勢。
如何にラフィールが強かろうと、彼だって人間だ。
ついに剣を握る力が弱くなる。これまでの疲労に戦いの負担が、重く重くのし掛かっていた。
けれど戦うのは止められない。
命を捨てるような瀬戸際の戦いで、思い出すのは最愛の恋人のこと。
(お姉さんたちに何かあれば、レナが悲しむ……。それに俺にとっても、彼女たちは身内も同然……)
武器も失い、人型さえも保てなくなったラフィールは、最後は獣型になって戦った。素早い動きで翻弄し、高く跳んでは相手の喉を喰い千切る。
とっくに限界を超えていた彼を支えたのは、泣かせてしまったレナヘの、贖罪の気持ちだった。
(少しでも長く、カタリナさまたちが逃げる時間を稼がなければ……)
ウォルフの森の、冷たい夜はまだ明けない。
アジアにおいて、野生の狼の天敵は虎だそうです。




