67 驚くべき事実
ご機嫌斜めの赤ん坊に、カタリナはどうやら悪戦苦闘しているようだった。ゴリラのおばさんが途中で呼ばれ、部屋の中へと消えていく。
ラフィールは意外にも、子ども ――特に赤ん坊が好きだった。今だって彼は、未来の甥っ子の顔を早く見たいと願っている。
しばらくすると、カタリナが赤ん坊を抱っこして現れた。
その小さな頭には贈り物の白い帽子。可愛らしい2つの手には白い手袋。
カタリナは言う。
「ラフィールさん。ようやく準備ができました。この子もひとまず落ち着いたようだから、早速行きま……」
「ふんぎゃあー!」
「まぁまぁ、どうしたの坊や! 泣かないで」
「カタリナさま、人見知りをしているんですよ」
おばさんの言葉に、ラフィールはそっと赤ん坊の視界から外れてみる。
目を固く瞑って玉のような涙を結ぶ赤ん坊を、カタリナは必死になってあやしていた。
ようやく泣き声が止んだところで、カタリナは眉を下げてラフィールに謝罪をする。
「ごめんなさい。どうかお気を悪くなさらないで。この子は私と籠りきりの生活をしているから、あまり人に慣れていないみたいで……」
「いえ、気になさらないでください。人見知りするのは賢い証拠ですよ」
そこまで言って、ふと彼は疑問に思った。
「ご主人さまと私は似ているんですよね?」
「ええ。でも夫は王都に行ったきりなの。この子がお父さまと顔を合わせたのは、産まれた直後くらいのものよ」
おばさんが嘆く。
「カタリナさま、おいたわしや……! こんな狭い部屋に閉じ込めておいて、ファルークさまは坊やに会いに来てもくださらないなんて……!」
大判の手巾で目の端を拭う仕草を、カタリナは苦笑しながら窘めた。
「そんなことを言うものではないわ。ファルークさまは明るい未来のために、遠く離れた王都で頑張っていらっしゃるのよ。……ね、坊や? 寂しいけれど、あなたも我慢できるわよね」
カタリナは帽子の頭を優しく撫でて、形の良い額に触れるだけのキスを落とした。すると赤ん坊の琥珀色の瞳が、こそばゆそうに細められる。
そして我が子を抱く腕に力を込めた。
上げられた華の容貌に宿るのは、母としての強さと同じくらいの弱さで。
カタリナは堰を切ったかの如く、心の澱を一気にラフィールの前で吐き出した。
「私たちは第1、第2両王子殿下とその取り巻きたちに狙われているわ。
でも聞くところによると、第1王子派と第2王子派に分かれている貴族たちだって、決して一枚岩ではないそうよ。
国を変えるために立ち上がったファルークさまを助けてくださる方は ――希望的観測かもしれないけれど―― あなたの領主さまのように確実にいると考えているの。
この国を真に愛し憂う、貴族や民衆の心を取り込めれば……そのときはきっと……」
カタリナは熱くなりすぎていた。
何を言っているのか、ラフィールにはよくわからない。
いや、わかりそうだからこそ、彼は敢えて遠回りをしようとした。
冷たい興奮を、冷まさなければいけなかったから。
「取り込んで、どうするんですか?」
もし仮に、愛する妻を守るためだけに、一介の貴族が行う宮廷工作の話だとしたら、あまりにも馬鹿げている。
この国の王権は絶対的。
国王と王太子は神にも等しい存在であり、王太子不在の今、その後継候補である獅子の王子たちに仇なすことは、国家への反逆と見なされてしまう。
それなのに英邁なはずの領主が、愚かで恐ろしい企みに乗っかっていることの意味とは――。
(第1、第2両王子に宣戦布告しても許される人物が、国王を除いて1人だけいる。後継争いから脱落したと見なされて、一般的には名前すら知られていない存在……)
その人物とは――。
カタリナは答えの代わりに、射るような眼差しでラフィールを見つめていた。
他人事でも遠い世界の話でもないと、彼女はその眼差しの強さだけで、未来の義弟に訴える。
「3人の王子のうち、獅子の男児を1番先にもうけた者が、立太子されることは、当然ラフィールさんもご存知でしょう?
王命ですもの。逆らってはいけないわ。たとえご生母さまの身分が低く、今まで顧みられることもなかった王子が、立太子されることになったとしても。
でも政治の世界は根回しがすべてだと、ファルークさまと領主さまは仰られた。私とこの子の身の安全を守りながら、王太子として認められるには、それなりの準備が必要なのよ。
ファルークさまが王位につけば、きっとこの腐敗した世の中は変わるわ。私たちも堂々とありのままの姿で、街を歩けるようになるかもしれない」
「カタリナさま。あなたのご主人さまは……」
カタリナは赤ん坊の帽子を取って見せた。
ふぁさり……
ラフィールの目に飛び込んできたのは、焔のように立ち上がる金色の髪。
耳は猫の耳に似ているが、少し分厚くて丸みがあり、尻尾は長くて、毛先は筆のようだった。
「よくご覧になって、ラフィールさん。この子は、あなたの血縁になるのだから」
ラフィールの鼓動が、血管を破りそうなほどに早くなる。
「黄金の獅子……!」
カタリナは静かに頷いた。
「そうよ。私の夫はフォレスターナ王国の第3王子ファルークさま。
そしてこの子は見ての通り、獅子の男児 ――即ち王位を継ぐ者」
カタリナはおばさんに頼んで、赤ん坊にまた帽子を被らせてもらう。
「兄王子たちは後継争いから距離を置き、後宮に背を向けて生きてきたファルークさまのことなんて、ほとんど眼中にはなかったの。
でも彼らは偶然の噂で、私の存在を知ってしまった。多産で発情期を選ばない私たちは、子を産む道具として、彼らにとって理想の相手。
そして長年軽んじてきた弟王子が、私の夫だと知られるのに、ほとんど時間はかからなかった……」
そこから先の話は、ラフィールも領主から聞いている。
「獅子の男児を先にもうけられては困ると、一気に追跡の手が厳しくなったところを、あなたの領主さまに助けていただいたの」
もともとカタリナはファルークの正体なんて知らなかった。
彼は出会ったとき、髪を染めていたし、そもそもそんな尊い身分の人間が、嵐の夜の迷いの森にいるなんて、誰が想像できるだろう。
運命に導かれ、愛し合った相手が、たまたま王子さまだっただけ。
彼との間に授かった子どもが、たまたま王位を継ぐべき者として生まれただけ。
「もう少し時間があれば、王都の方の下準備も済んだのでしょうけど……」
カタリナは真っ直ぐにラフィールを見つめた。
「万が一の場合は、この子だけでも……」
ラフィールは首をふる。
好きな女の姉も、その息子も、必ず守ってみせる。
「いいえ。愛するレナのため、あなたもこの子も、私が命を懸けてお守りします。この子は私の甥っ子になるのですから」
ラフィールたちはまた暗い通路を戻り、ガイゼルたちと合流する。
外はひどく吹雪いていた。
レナ「お姉さまのお相手が、王子さまだったなんて! でもどうして王子さまが嵐の夜の迷いの森に……」
長老「大方、自分を見つめ直す旅の途中だったんじゃろ。彼の母親は、狼領主が治める辺境出身なのだからな」
☆ 幼い頃に母親を暗殺(表向きは自殺)され、厭世的で投げやりだった王子は、愛する者ができたことで生まれ変わりました。カタリナは貴族社会でも生き抜けるような、非常にしっかりとした女性です。彼女がレナと赤ん坊の血の繋がりを強調したことによって、ラフィールは……。
★ 話の核心にもっと近づきたい方は「53黄金の獅子」「54秘密の小部屋」「58うさぎの正体」を再度お読みいただければ話が繋がると思います。