61 レナの覚悟
「でもな。ワシのことはともかくとして、ラフィールとも、このまま別れるつもりなのか? レナが平気なら、もうワシからは何も言うことはないんじゃが……」
ゴードンもやはり、黒猫の先輩メイドと同じ疑問を口にした。
しかしそこに好奇心はなく、あるのはレナに対する真摯な愛情と心配だけ。
雪に濡れてしまったゴードンを、レナはまた傘に入れてあげた。
至近距離で瞳を覗きこまれれば、共に過ごしてきた時間が心に嘘をつくことを許さない。
「平気なんかじゃ……ありません……」
すっと視線を落としたブーツの下、ぬかるんで地肌が露出した草地に、雪が吸いこまれるように消えていく。
「本当は私……許されるなら……ラフィールさまと……ずっと……」
迂闊なレナはラフィールを愛してしまった。
だからこんなにも、引き裂かれるように心が痛い。
でもきっと、里の大人たちはわかったようなふりをして言うのだろう。
恋の傷は新しい恋が癒してくれると。
一等輝いて見えた一番星も、満天になった夜空ではつまらぬものだと。
残酷な思いやりを高々と振りかざして。
しかしいくら従順なレナであっても、里に帰ったところで、黙って運命を受け入れるつもりはなかった。
父レオナールは娘のことを溺愛しているし、長老はなんだかんだでレナに甘い。
里を出ていかないことさえ約束して、一世一代の反抗心をみせれば、驚いた彼らは無理矢理ほかの誰かと番わせようとする里の民を、むしろ説得してくれるかもしれなかった。
何しろレナは、里の非常時に狼の男性と深い仲になってしまったという前科もち。
世間と恋を知った大人しい娘が、追い詰められてとんでもないことをしでかしやしないかと、長老と父レオナールは大いに慌てるに違いない。
(もしそれが、叶わなかったら?)
レナは己に問いかけた。
ラフィールを慕う心は捨てられないが、うさぎ獣人が堂々と外の世界で生きられる訳もない。
変化の丸薬ももう貰えないだろうし、あれは常識外の代物だから、仮に貰えたところで飲み続けることは避けたかった。
一方で里のゴタゴタに巻き込んで、大切なラフィールに迷惑をかけたくない。
領主の騎士であることを誇りにしているラフィールは、これからも皆に必要とされるべき人。
彼の将来の障りになってしまうなんて、それこそレナにとっては、絶対にあってはならないことだった。
先の見えないトンネルに、レナが見出だした唯一の希望。
それは大いなる森に抱かれて、廻る生命の一部になること。
誰に遠慮することもなく、好きな人を永遠に想うことが許されるなら、そっちの方がずっと良い。
(そして身軽になった身体で、ラフィールさまに会いに行くの)
たとえ愛を伝える言葉を失くしてしまったとしても、レナは心を殺されたままで、生きたくなんかなかったから……。
「レナ!」
ゴードンに名前を呼ばれて気がついたときには、強い風に傘が拐われるところだった。
ぼんやりしていた自分を戒め、レナは手に力を入れる。顔を襲う雪に、思わず目を閉じたそのとき。
手もとに感じたのは優しい温もりだった。
「先生……ありがとうございます……」
老医師は華奢な手を覆うようにして、レナと一緒に傘を支えてくれていた。
皺だらけの手は乾燥していて、レナより少し大きいくらい。ラフィールとはまったく異なる、力強さとは無縁の手。
それなのに、とても心強かった。
「お主が背負っているものが何か、ワシにはまったくわからない。でも難しく考え過ぎてはいないかの?」
重ねられた手に染み込む熱は、凝り固まった心を少しずつ確実に溶かしていく。風が一呼吸待ってくれている間を、ゴードンは逃がさなかった。
「その重たい荷物を、ラフィールにも遠慮なく背負わせてやれば良い。アイツならどんな荷物も背負ってくれるじゃろうて!」
痺れを切らした風がまた強く湖面をなぞる。木々を揺らし、薄氷の水面さえもざわつかせて。
「独りで悩むな。ラフィールに相談しろ。ワシと違って、アイツは本当に頼りになるぞ!」
ゴードンは目尻に愛情たっぷりの皺を刻んだ。
「なんせワシの可愛いレナを、唯一託しても良いと認めた男じゃからな」
「先生……」
「頼ってやれ。好きな女に頼られることもなく去られたら、男としてこんなに情けないことはないぞ。ラフィールに恥をかかせるな」
「…………」
「そんな泣きそうな顔をして、2人の未来を勝手に独りで諦めるんじゃない!」
「はい……」
「うむ。わかればいいんじゃ、わかれば」
そう言った老医師の頬は、ほんの少しだけ赤かった。
ひょっとしたら、初恋を拗らせたゴードンの、まだ引き始めの風邪のせいかもしれないけれど。
突然尖塔から消えたうさぎの女。
恋は道に迷っても、少年は彼女の幸せを希う。
終わらせられなかった初恋に、せめて幸せな色を重ねられれば、行く先を失った在りし日の想いは救われるから。
今日も相変わらずレナからは、雄にだけわかるラフィールの執着の匂いがする。
男女のことは2人にしかわからない。
本来ならば、口を出すのも無粋なのかもしれないが、ゴードンはつい要らぬお節介を焼いてしまった。
愛し合う若い2人がじれったくて心配で、応援してあげたくて。
柄にもないことをしてしまい、ゴードンは鼻の頭をポリポリと掻いた。ついでに鼻がむずむずしてくる……。
「へーくしょいっ! うう、やっぱり寒いのぅ。
ちゃっちゃと用事を済ませて帰るとするか。日が落ちるのはあっという間じゃからの」
ゴードンは努めて明るい声を出した。レナは弾かれたように顔を上げる。
「はい! 雪に負けないで、沢山薬草を集めましょう!」
レナはようやく、現実と向き合う覚悟を決めたようだ。
ラフィ「お前、他の男と夫婦になるくらいなら死を選ぶつもりだったのか?!」
レナ「え? (きょとん)」
ラフィ「違うのか?」
レナ「はい。人間の姿を捨てて、ただの野うさぎとして生きるつもりでした。野生生活にも慣れたら、ラフィールさまにも会いに行こうかと!
あ、でも……。ただのお肉扱いは、絶対にしないでくださいね。せめて愛玩動物にしてください。それか放置か……」
ラフィ「そういう問題じゃない! 人間を辞める覚悟があるなら、早く俺に相談しろ(怒)」




