4 初めての変化(へんげ)
走って。
走って。
ずっと走って。
レナは真夜中の森を転げるように逃げ続けた。
既に足の感覚がない。
息が切れて、限界を超えた肺が痛い。
湿った土と草と止まらない汗。それらが濡れ落ち葉のように、身体中にまとわりついて離れなかった。
どれくらい走っただろうか。
瘤のように盛り上がっている木の根もとで、ついにレナの足が動かなくなった。
黎明を迎えた空が色を変え、気の早い小鳥たちがご機嫌に囀ずっていた。どんなときでも必ず朝は来るのだと、レナはある種の感慨を胸に灯して、天を仰ぐ。
(薬、飲まなきゃ……)
丸薬の小瓶を後ろ脚で抱え込み、前脚をその蓋に引っかけた。
パカリ
何とか蓋を開けることには成功する。
けれど大変なのは、そこから先。
獣型では中身を上手く取り出すことができなくて、ふと悩んで動きを止める。
(こういうときは人型に戻った方が良いのかしら……。あ、でも……戻ったら裸になっちゃうから……それはちょっと……)
人型の方が細かい作業には適しているが、苦痛を伴う変化の後に、意識を保っていられるとは思えなかった。
獣型で倒れて肉食獣の血肉となるか、素っ裸で倒れて快楽の餌食となるか。
――どちらかを選ぶとしたら、前者の方がまだマシかもしれない。
レナはスンと鼻を鳴らして、小瓶の空気を少しだけ吸い込んだ。
(うぐっ……変な匂い……)
それは小粒で地味な見かけをしているのに、生き物を本能的に躊躇させるような、実に禍々しい匂いを放っていた。
そのせいで、眠気と疲労までもが一目散に逃げ出してしまったのだから、本当に恐ろしい。
悪戦苦闘の末の末、慎重に慎重に少しだけ小瓶を傾けて、レナは一粒転がってきた丸薬を舌先で掬い上げた。口に含むと、勇気を出して噛み砕く。
ジャリ……ガリッ……
(うー、美味しくなぁい……)
あまりのまずさに、目の端を涙が伝う。砂粒を食べたような感触と強烈な不快感が、波濤の如く押し寄せてきた。
しかし神が与えてくれた姿を変えるのだから、これくらいは耐えるべき試練なのだと、自らに言い聞かせてじっと我慢。
我慢、我慢、我慢……。
身体に異変を感じたのは、それからしばらく後のこと。
(あれ? なんだか熱が出てきたみたい……)
火が付いたように身体が熱い。耳も痛いし、臀部がむず痒くなってきた。
(痛い……身体がおかしくなりそう……!)
細胞の一つ一つが沸騰するような未知の感覚。自分の身体に起こりつつある変化に不安が募り、心の中で家族を恋うた。
(私……どうなってしまうの……? お父さま、お姉さま……)
そしてそのまま、熱を孕んで倒れ込む。
彼女が火照る身体で見た夢は、明け方には相応しくない、とても淫らな夢だった……。
* * *
温かい手の感触と心地好い振動。
重い瞼を持ち上げれば、美しい緑の隙間から、青い空がのぞいていた。中空で輝く太陽がもう昼間だと教えてくれる。
「……ねぇ、起きて起きて……」
青い服をグラマラスに着こなした女性が、屈むようにしてレナに声をかけていた。
漆黒の髪に水色の瞳。腰には優美な装飾の長剣をさしている。
艶やかな黒髪の間からは三角の耳が見えて、心配そうに揺れているのはふんわりとした長い尻尾。
(誰?)
「あ! 目、覚めたのね? 大丈夫?」
まだ寝ぼけていたレナは、ぼんやりと女性を眺めていた。
「皆ぁー、こっち来てー! 予想通り、犬の獣人の女の子よ! でも傷だらけだし、大分弱っているみたーい!」
(犬? 私、ちゃんと変化できたのね。良かった……)
ここは鏡もない森の中。
無事に変化できたことに安堵して、レナは美しい女性の溌剌とした声を、子守唄がわりに聴いていた。
レナ「長老。明け方に見た淫らな夢って何ですか?」
長老「すまぬな。ここは『なろう』じゃから、詳しくは書けんのじゃ」
レナ「…………。ハッ! 私、わかっちゃいました。でも……そんな! そんな乱暴な夢……」
長老「うむ。心のなかにとどめておけ、ここは『なろう』じゃ。お月様ではないのだからな」