27 老医師ゴードン
「大丈夫ですか?!」
深紅の海に沈む俯せの身体。それはどうやら血ではなくて、フラスコに入っていた何かの薬らしかった。
幾つか転がる細長い口部分の硝子片を眺めながら、レナは慎重に老人を仰向けにさせる。
枯れ木のような痩せさらばえた身体でも、触れると確かな温もりがあって、レナは老人が生きていることに心から安堵した。
すると落ち着きを取り戻した彼女の耳は、今更になって気の抜けた音を拾う。
スピーズピピー
(鼾?)
「うー……むにゃむにゃ」
(眠っていたの……? でもこんな濡れたところで寝ていたら、風邪をひいてしまうかも……。それに硝子で怪我でもしたら……)
そのように考えたレナは、赤い液体の海に眠る老人の救出を決意した。骨と皮ばかりのその身体なら、非力な彼女でも移動することができそうだ。
引き摺るように診察室の固いベットに先に上がり、レナは老人の両脇の下に自らの腕を差し込むと、その痩躯を気合いを入れて引っ張りあげる。
(もう少し……!)
老人の頭を柔らかな胸の辺りに抱え込み、そのまま倒れるようにしてベッド上に無理やり横たえようとした。
そのとき。
寝ているはずの老人の血走った目が、カッと音がしそうなほど、突然大きく見開かれたのだ。
「甘い匂いがするっ!」
「!」
レナは突然の大声にビクリと身体を弾ませた。そして驚きのあまり、老人から手を離してしまう。
薬品と消毒の匂いがするだけの医務室で、支えを失った白髪も疎らな後頭部が、レナの胸からベットの縁へと落下した。
ゴンッ
「い"だっ!」
静寂の室内に響く鈍い音と濁った悲鳴。レナはハッとして、老人に謝罪する。
「っ! ごめんなさい」
「痛いのぅ……」
まだ騒ぐ胸を押さえるレナと、それには構わず、頭を擦りながらヨロヨロと起き上がる老人。
「はぁー、やれやれ……。ところで、お主は患者か」
「は、はい」
老人は垂れ下がり気味の瞼を、器用に片方だけ持ち上げた。レナは慌てて頭を下げる。
「初めまして、レナと申します。こちらでメイドとして働く前に、お医者さまの診察を受けるように言われたので参りました」
老人は軽く頷いた。
「ふむ、そうか。ワシはここで医師を務めておるゴードンじゃ」
山羊の獣人であるゴードンは、普通なら隠居してもおかしくないような年齢だった。
鍵穴のような瞳孔に、メアリ婆さんよりももっと長くて鋭い角。寂しい頭髪とは対照的な、白くて首の中ほどまで垂れる立派なアゴヒゲ。
全体的にしょぼくれた印象ではあるものの、レナの大好きな長老とよく似た雰囲気をもっていた。
さて、名乗りの務めを終えたゴードンは、ポタポタと赤い液体を白衣から垂らしながら、机とは明後日の方向に放置されていた椅子をあるべき場所に戻す。
そしてレナのためにもどこからか椅子を運んできた後、緩慢な動作で机の前に腰かけた。
「ほれ、レナよ。そこに座りなさい」
「はい」
促されて着席するが、椅子の足が不揃いでぐらついた。
レナはバランスを取りながら、赤い液体まみれの老医師と向かい合う。
簡単な問診と診察が終ると、持病と常備薬について尋ねられた。
そこでレナは胸元の小瓶から一粒だけを取り出してゴードンに渡した。ラフィールに話したのと同じように、野うさぎの調理法を今一度うさぎ視点で説明する。
過酷な運命に貧血を起こしそうになったのも、前回と同様だ。
ゴードンはそんな彼女と丸薬を交互に、そしてとても興味深そうに見比べた。
寝食を惜しんで、薬草の研究に励んでいる彼にとって、奇病におかされているレナと謎の丸薬は、格好の研究材料のように思われたから。
「レナよ。貧血なら横になってもいいからな。ふーむ……しかし見たことのない薬じゃ」
ゴードンは、丸薬を中指と親指でつまみ上げた。
「里秘伝のお薬なので、まだ公には知られていない成分が入っているみたいです」
「なるほどな。それと……ワシは1つ、気になって気になって仕方がないことがある」
「? 何でしょうか?」
レナだって気になっていることはあった。
どうしてゴードンは倒れていたのか。白衣を染める赤い液体は何なのか。びしょ濡れの白衣は脱がなくてもいいのか。「甘い匂いがする」とはどういうことなのか。
しかしそんな彼女の疑問は、次なるゴードンの行動で、意識の遥か彼方に飛んでいく。
なんと彼は、レナのうなじから首筋をなぞり胸元まで、クンクンと執拗に乙女の匂いを嗅ぎ始めたのだ。
「き、急に、何ですか……?」
緩くカーブを描く角は顔に刺さりそうだし、とりあえずこの変態的な行為が怖い。レナは思わず身を捩った。
「いやっ! やめて!」
レナがやにわに立ち上がろうとしたときだった。彼が1人納得した様子で呟いたのは。
「ふむ、やっぱりな。これは何とかしないといかん」
ゴードンが離れてくれたことに安心したレナは、ぐらつく椅子に座り直した。意味不明の言動が多過ぎる老医師に、さっきからラフィールといるときとはまったく別のドキドキが止まらない。
ゴードンは人差し指を立てて言う。
「お主、かなり危険な発情香を纏っているが、自覚はあるのか?」
「え? 発情香? 危険な?」
レナは予期せぬ事実を告げられて、自分に起こりつつある変化を、しばらくは飲み込むことができなかった。
真剣にタイトルが恥ずかしくなってきた今日この頃……。




